1700年(元禄一三)肥前国(佐賀県)椎の峯陶工と伊万里商人の間に裁判沙汰が起こり、事件に関係した陶工たちは追放されました。
そのため残ったわずかな陶工では年一回の大窯での藩御用品を焼くことができなくなったので、翌年唐津藩窯が築かれました。
これが最初の御茶碗窯であります。
1707年(宝永四)まで経営され、1723年(享保八)椎の峯陶工たちに払い下げられ、のち藩窯は廃止されました。
1707年、四代中里太郎右衛門・四代大島弥治兵衛は藩命を受けて唐津坊主町に御茶碗窯を築き、翌年正月椎の峯より移り、以降二十六年間藩の御用品を焼いました。
この坊主町御茶碗窯の作品を、藩主土井侯の名をとってか土井唐津と称します。
1734年(享保一九)五代中里喜平次・五代大島弥吉は藩命により窯を唐人町(町田字谷町)に移しました。
この窯が土地の人のいう御茶碗窯であります。
廃藩後大島家は陶業を離れ、この窯は代々中里一族によって経営されました。
十二代太郎右衛門は1920年(大正九)頃まで使用しましたが、現在中里陶房の一隅に当時の名残りを留めています。
土地の人は御茶碗窯で焼かれたものを献上唐津と称しています。
作風は古唐津とはまったく異なり、磁器風で、専門の画家が絵付しました。
製品は抹茶碗・水指・花生・向付などの茶道具や、飯碗・大鉢・床置などあらゆるものがあります。
中でも青地白象嵌・白地黒象嵌・染付の作品が有名であります。