茶碗屋久兵衛 ちゃわんやきゅうべえ

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鶴田 純久の章 お話

京都三条河原町の陶器商壺屋久兵衛(九兵衛または九郎兵衛ともいわれる)。
明暦年間(1655-8)肥前有田の陶商青山幸右衛門との取引の縁故によって肥前の秘法である金欄手焼付の法を伝聞し、内々にこれを仁清に伝えました。
仁清は日夜工夫してついに金欄手を焼出し、京都赤絵の始まりとなりました。
のち事実が暴露し幸右衛門は処刑され、久兵衛はこれを聞いて発狂しました。
これは赤絵法の原地である肥前の記録には見えず、京都における伝説であるようで、のち『椀久物語』として戯作化されました。
また久兵衛は人形をつくることが上手でありましたが、狂気の快癒後は「椀久」などの狂言で自分の名が汚されたのを憎んでつくった人形を俳優には売らなかったという伝説も生まれました。
久兵衛の没年は、大阪寺町(天王寺区)実相寺の墓碑によれば延宝五年(1677)9月初日とあります。
(『観古図説』『日本近世窯業史』『日本文学大辞典』)

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