対馬の陶磁器。
一般には朝鮮釜山窯の製品をも含めて対馬焼と称しているようで、『陶器考付録』対馬の条にも、実際は釜山窯の陶工である茂三・玄悦・小道二・小道三・弥平太・太平・徳本の名を挙げ、朝鮮の風を写す遠州時代の作人上手七人などとしている(「釜山窯」についてはその項参照)。
対馬の陶業は古く、出土破片からみると遠く新羅・百済の時代に土器の製があったと推定されます。
のち宗家の先祖がこの島に来た時以来、桟原氏が代々土器づくりの業を継いだと伝えられています。
しかし史実にみえているのは、享保年間(1728-36)すなわち従来宗家から煽師を派遣して焼造に当たらせた朝鮮釜山窯の廃絶直後で、対馬焼はその釜山窯の継続というべきであります。
窯はいずれも厳原(対馬市厳原町)近傍にあります。
(一)小浦皿山窯創始年時は明らかでないが諸窯中で最も古く、高麗青磁に近い破片があります。
(二)久田窯増田窯とも称し享保の頃起こりました。
工人に早田恵作の名かおり、青磁および濁りのある白磁の類を主とします。
(三)志賀焼窯対馬焼の中心をなすもので、1726年(享保一回の創始。
平山意春らが御用窯として開いたものであるでしょう。
1791年(寛政三)新渡り茶碗窯をこの地に起こし、染付の製があります。
文化年間(1804-18)の吉田又市が最も有名で各種の器を製しました。
明治末年廃窯。
(四)立亀窯初め宗家の日用磁器を製するために起こされたもので、もっぱら白磁および染付を出しました。
創始年代は不明。
順太郎・卯兵衛らの工人の名が残っています。
(五)阿須窯弘化(1844-8)頃に始まり日清戦争後に廃窯。
(六)小浦窯明治中期の創業であるがしばらくにして絶えました。
詳細は各項参照。
以上対馬焼はおおむね御用窯として主に朝鮮系統の茶器類を製しましたが、ほかに新渡りの染付写しなどもあるようで、また明治中期には阿須窯で朝鮮貿易品などをつくりましたが、これは対馬焼の本流ではなかりました。
大体は青磁のようなもので素地に青味があるようで、白釉を透してこの青味が表から見えます。
また御本写し・御本立て鶴・雲鶴・三島・白磁・鉄砂などがあります。
(『陶器考付録』『陶器類集』『日本陶磁器史論』『日本近世窯業史』『日本陶甕史』『釜山窯卜対州窯』)※ふざんよう