茶壺を大間の年齢になぞらえていった言葉であります。壺のなり形で年齢を想像しています。『津田宗及日記』に「壺の年は四十ぽかりなるものを見るやうに候」と記しています。茶入は茶器を見ますのに、火を見るのと同様であったことがわかります。