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鶴田 純久の章 お話

陶製の茶沸かしまたは湯沸かし。
胴に一つの注口と二つの耳を具え、蓋があります。
取手は原則として他の材料でつきます。
磁製のものをも土瓶というようになったのはおそらく1887年(明治二〇)以後のことと思われます。
それまではすべて陶器製でありました。
磁器の取手のある伊万里染付のものが昔からありましたが、これはすべて酒注で茶用の土瓶ではないようです。
土瓶という語がいつから起こったか明確ではないようです。
『平治物語』にみえる土瓶は酒瓶であります。
『書言字考節用集』『名物六帖』に茶用の土瓶のことが書かれていますので、元禄・正徳(1688-1716)の頃に今日でいう土瓶が現われたらしいです。
今日知られる最古の実物は、元禄の頃すでに廃窯していた肥前国杵島郡黒牟田(佐賀県武雄市黒牟田)の窯跡より出た黒釉の土瓶であります。
文禄の役(1592-4)以後北九州でつくられたのが最初であるでしょうか。
『訓蒙図彙』『和漢三才図会』には土瓶の図はみえず、1789年(寛政元)刊の『訓蒙図彙大成』に初めて現れます。
たぶん土瓶は江戸時代初期に始まり中期に至ってやや広まり、幕末においてその最盛期に達したものであるでしょう。
土瓶は南九州ではチョカ(茶家)、北九州では茶出しと呼ばれ、他地方ではだいたいドビンといい習わしますが、茨城県・山口県・島根県・四国地方などではドヒンと清みます。
土瓶は最初茶器として考案されたものではなくおそらく煎薬用として発生し、のち茶瓶として慣用されるようになったようであります。
形態並びにその用途から、土瓶は鉄瓶・注子・薬嬉なとがら転化したものと断定できます。
その形態は、胴についてはだいたい丸型と張型の二種に分けることができます。
張型は普通算盤粒形といい、益子では船型と呼びます。
これは鉄瓶などの形を継承したものであります。
両方とも古くからあったようですが、だいたい古いものには丸型が少なくあとになる程多くなります。
薬土瓶として現在残っているものは算盤粒形のものが多いようです。
普通胴体には表裏の別があるようで、右手で使うので客に面する方すなわち注口が右にくる方を表とします。
底は平底と上げ底の二種があるようで、古い作品はほとんど平底で、半球形の上げ底はのちの考案によるもののようであります。
底の周囲に三つの足を簡単に添えたものがあるが、これは錨などを模したもののようで、のちにはただ形式として残っていたがついになくなってしまりました。
注口には直線の鉄砲口と曲線のため口とがあります。
胴より注口に通じるところには茶かす留めの孔があります。
酒注にはこれがないようです。
耳にはほぼ三通りあるようで、最も古いものは角形で大きく美しく、明らかに金工に由来したことを物語っています。
これは極めて初期の作品以外にはないようです。
次に山形があるようで、益子ではこれをぬき山と呼びます。
多くは型抜きでつくりました。
図のように山が一つのもののほかに三つ山のものもあるようで、これもまた金工品を踏襲したものであります。
幕末までの土瓶の耳は角形のもののほかはすべて山形でありました。
最も新しい起原のものは簡単に土を捻って付けたもので、明治以降のものと思われます。
この種の耳に限り、上に黒の点を打ち、またこれに添えて注口の先にも三本程線を引くのを原則とします。
蓋つくりには多様の形態がありますが、明治初年までのものはだいたい山蓋・平蓋・落とし蓋の三通りに分かれます。
図1は山蓋で、山形をなし、口の縁で支えられ、中央には必ずつまみがあります。
nは落とし蓋で、鉄瓶などによくみる凹形のものであります。
最も古い様式の一つということができ、この特色の一つはつまみが退化してほとんど形式としてのみ残り、実際の用を果たさないところにあるようで、取り外す時は蓋の縁を持ちます。
mは平蓋で、小型の安土瓶に多いようです。
普通口縁が非常に高く蓋は下に沈み、蓋もまた内側に凹み、つまみの高さは口縁より低いです。
これは安土瓶の性質上重ね焼の必要がありましたからで、蓋を入れたまま重ねて焼いたのであります。
したがって全体に対する口まわりの比率が大きいです。
信楽・益子でこの種のものを多ぐつくり、これを内含土瓶と通称します。
汽車土瓶はみなこの型であります。
土瓶の最も古いものは無釉で、今なお山口県のなばむし土瓶、烏取県の薬土瓶などに残っています。
発掘品から考えると、次に古いのは黒釉のもので、もっともこれは火加減や釉調合の度合により天目にも柿色にも飴色にも変わります。
北九州や瀬戸ではこの種のものを多く焼いました。
現在では大分県の日田の作品が代表的なものであります。
そのほか並釉のもの、白絵のもの、海鼠釉のもの、緑釉のものがあります。
とりわけ比較的多いのは緑釉で、相馬・信楽・明石・北九州で焼かれた。
釉はどれも五分の四位施し、底には掛けず、内部にも掛けたものは少ないですが、これは釉のない方が火に強いためと考えられます。
装飾としては古くから線掘りの模様があるようで、信楽や明石ではこまかい縦線があるのをとちりといい、横線のものを糸目と呼びます。
絵付には鉄絵・藍絵・絞り描きその他があります。
文様は山水草花その他いろいろ。
絵を一面に描き詰めたものもあります。
また白絵の丸い化粧に絵付した窓絵があります。
土瓶の窯は各地に極めて多く数え切れない程ですが、特に多量に産するのは信楽・明石・益子であります。
しかし磁那器やアルミニウムが出たために土瓶は一時衰退しました。
以上は柳宗悦の説によります。
土瓶は雑器として長い間人々に顧みられませんでしたので、土瓶に関する文献としては雑誌『工芸』十号のほかには見当たらないようです。

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