保羅山人とも書き、二代仁阿弥道八の別号。
1827年(文政一〇)島津栄翁の命により重久元阿弥は京都五条坂に赴き道八より陶法を受け、帰来すると竪野(鹿児島市)に京窯を設け道八の原料を用いて金焼付を成し、ついに華美な金欄手を開いました。
これは先に製造された星山仲兵衛の金焼付の改良と思われ、薩摩金欄手はこれより大いに進歩しました。
栄翁は道八の伝授を深く喜び大形の銀螺細の法螺貝を贈りました。
道八の別号はこれより出で、銘款にも法螺貝の中に道八の篆字を入れたものを用いました。
これを法螺貝印といい、仁阿弥が四十五、六歳の‘文政(1818-30)末年よりの使用であるでしょう。
三代道八もこれを用いました。
(『薩摩焼総鑑』)※どうはち