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鶴田 純久の章 お話

常滑焼の妬器質に焼き締めたのをいいます。
かつて本居宣長がその書簡の中に、すえものの真焼ける次第を説いているのをみても、真焼という術語は伊勢(三重県)・尾張(愛知県)近辺で通用されていたことを知ることができます。
常滑焼の室町時代の窯は鉄砲窯でありましたが、鉄砲窯は焚き口付近は火度が高く、末部は火度が低いもので、江戸時代には赤甕の需用が多かったために、江戸末期には鉄砲窯で多くの赤甕を焼いたものであります。
1834年(天保五)に鯉江方救がその子方寿と共に新たに登窯を築き、これを真焼窯と称して真焼物のみを焼いたのであります。
真焼は鉄分の多い田土でつくった素地で、黒々とした堅質で雅致に富み、その質は妬器になっています。
表面には光沢が生じ、多くは無釉でありますが、部分的に灰釉が流されているものもあるようで、自然釉の見られるものもあるようで、丹波焼や備前焼や南蛮物にもよく似ています。
真焼土管が1847年(弘化四)に成功したのも、鯉江方寿、その子高司の努力によるものでありますが、真焼窯によってこれがなされたことは特筆すべきことであります。
(『日本近世陶業史』『陶磁文明の本質』)

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