了入 りょうにゅう

了入 りょうにゅう
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鶴田 純久の章 お話
了入 りょうにゅう
了入 りょうにゅう

楽家九代。
八代得入の弟、幼名惣次郎、1770年(明和七)得入が病弱のために名跡を継ぎ喜全と譚しました。
1811年(文化八)五十六歳で剃髪し了入と号しました。
これは了々斎宗左より与えられたものであります。
了入はその製作年限が最も長く、俗に三期に分けられ、十五歳当時から三十三歳すなわち1788年(天明八)京都の了入までの作品を前作または前印といい、遺品が僅少のため貴ばれています。
以後五十六歳の1811年に至る期間の作を中印といい、草楽印というのは同年以後仏門に入り了入と改めた晩年約二十三年間の作を指すのであります。
なお六十三歳当時了々斎より翫土軒の扁額を与えられ、また1819年(文政二)の頃二男旦入と共に紀州家の御庭焼に従ったことがあります。
その作の多くはノンコウ張りで、箆使いは巧妙、量感も軽く、赤釉が非常に鮮明であるようで、特に黒釉に至ってはいいようもなく滋潤で、また黄色の胎土を抜き出しにして文様を露呈させ釉を掛け分けにしたのは了入の独創であると称賛され、楽家中興の名匠と称せられています。
また了々斎好みの鳳凰風炉の印中試作も了入であって、楽の数印といって一個の茶碗に三つ四つ捺印することも了入に始まるといわれます。
また印款のかたわらに「梅園」「滋」とし、古稀の時に草楽の上に「古稀」の二字を表したものは「九代造」の書判を添えています。
1834年(天保五)9月没、七十九歳。
(『茶家酔古様』『茶道笙蹄』『日本陶器目録』『工芸鏡』『楽焼』『楽陶工伝』)

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