唐津焼 からつやき

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鶴田 純久の章 お話

肥前国(佐賀・長崎県)の窯場で焼成された陶器。起源は平安時代まで溯(さかのぼ)るとされますが、元亨年間(1321-4)鬼子嶽四方の山中に北朝鮮系の透明灰釉を施した飯洞甕窯が創始され、次いで不透明の海鼠(なまこ)白釉を施した帆柱窯が開かれ、漸次、皿屋窯・道納屋谷窯・平松窯・大谷窯・小十官者窯も開業、茶碗・茶器類が雑器とともに焼成されるようになったといいます。文禄・慶長の役ののち渡来した朝鮮の陶工によって更に多くの窯が築かれ、元和(1615-24)ごろに最盛期を迎えました。
唐津焼の種類は多く、米量・根抜・瀬戸唐津・朝鮮唐津・奥高麗・絵唐津・献上唐津・火計・彫出唐津などがあります。朝鮮陶器の影響を強く受け、素朴で豪放な作品が多いです。,

唐津焼の名称は、元々肥前の国(佐賀県・長崎県)で焼かれ生産されていた焼き物を、唐津の港から舟で全国に出荷されてたことによる名称で、有田焼が伊万里より出荷されていたことにより伊万里と称され,いたことと類似しています。
実際に唐津市街地には古唐津の窯跡は少なく、伊万里・武雄・多久・有田・三川内など広範囲に点在していて、それぞれ地方の名にちなみ、松浦唐津・武雄唐津・平戸唐津など他にもありますが、そういった名称でも伝わっています。
有田焼の有田でも唐津は焼かれており、同じ窯で唐津焼と有田焼が同時に焼かれていた痕跡(こんせき)が残っております。
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中でも十六世紀から十七世紀ごろまでの唐津焼を「古唐津」と称しています。,
元和二年(1616)佐賀県西松浦郡有田町で白磁の焼成が完成しました。
有田付近の古唐津陶工のほとんどは磁器焼成に変わり、その他の陶工は李朝三島の技法を日本風に変え、以前にない装飾方で、農漁村で使う雑器を焼くようになりました。
有田、西有田と境を接する長崎県の三河内、波佐見地方でも同じ現象が起こりました。
これら土物作品は「唐津民窯」といい明治末期まで細々と続いていましたが、二十世紀に入るとほとんど絶えてしまいました。
終戦後一九六〇年代頃より陶芸ブームが起こりますと、また盛んになったようです。

唐津焼の紀元と岸岳古唐津
摂氏1230度以上の高温で焼く施釉焼き物の歴史では、中国、朝鮮、安南など、東洋の他の国々と比べると日本は新しく、瀬戸、美濃、唐津地方以外の日本の各地で、高温度施釉の焼き物が作られるようになったのは、十六世紀末の豊臣秀吉の文禄、慶長の役以後とみてよいです。そのわずかな例の中に唐津は入ります。では高温度施釉の唐津焼はいつ、どこから伝えられてはじまったのか不明ですが、今日考えられるルートとして、想像の域であるが朝鮮半島の咸鏡北道説と、中国の江南説の二つがあります。
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唐津市の南郊約11キロのところに佐賀県唐津市があります。同村に十二世紀中期に波多持が築城し、十六世紀末まで四百余年間、波多氏の居城であった岸岳(鬼子嶽)城跡があります。この岸岳城山麓(さんろく)に飯洞甕下、飯洞甕上、帆柱、岸岳皿屋、道納屋谷、平松、大谷の七窯が発見されています。これらを「岸岳古唐津」と称します。飯洞甕下窯には窯床と窯壁の一箇所だけが残存していて、現存するものとしては日本最古の割竹式登窯です。また飯洞甕窯の南西約千五百メートルにある帆柱窯は、唐津焼の中でも最古のものとされている窯であるようです。
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唐津焼が秀吉の朝鮮出兵(1592)以前に始まったことは、幾つかの証拠で説明できます。ひとつは岸岳城山麓(さんろく)以外にも、室町時代に開かれたと思われる古窯があります。帆柱窯系の山瀬上、山瀬下(絵唐津に藁灰釉をかけた斑(まだら)絵唐津を焼いている)の両窯と飯洞甕系の小十(小次郎)窯です。昭和六十年に唐津市枝去木大字後田にある名場越後田遺跡で松浦党の将校クラスの屋敷が発掘されました。
中国、朝鮮の古陶磁に混ざって付近にあった小十窯の皿、茶碗などが出土しました。
屋敷の年代は十六世紀初期から中期と推測されます。すると小十窯は1550年代には稼動していたことになります。小十窯より更に古いといわれる岸岳古唐津は1550年代以前に開窯していたようです。
二つ目は、天正元年(1573)、織田信長に滅ぼされた福井市一乗谷の朝倉屋敷の焼土層下から古唐津陶片が出土しています。その中に飯洞甕窯産と思われる叩(たた)き釉の上に飴(あめ)釉をかけた叩(たた)き耳付花生けの陶片があります。三つ目は、堺市の環濠都市遺跡から古唐津陶片が出土していますが、その中の天正十三年(1585)木簡と搬出した絵唐津小鉢は岸岳の道納屋谷窯のものと思われます。四つ目に、天正十九年(1591)に自刃した千利休(1522~91)所持の三筒の一つに奥高麗茶碗の「子のこ餅」があります。胎土、釉の調子から飯洞甕窯か帆柱窯で焼かれたものと思われます。五つ目は、昭和四十六年に行った熱残留磁気測定によれば、飯洞甕下窯の終わりは十六世紀末とのことのようです。
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その他、昭和四十八年、岸岳皿屋の堤から叩(たた)き専門の窯が発見されました。
壺(つぼ)、甕などをつくっていますが、叩(たた)きが上手で、非常に薄くつくられています。,この岸岳古唐津では、ほとんど日用雑器がつくられ、一部の例以外、茶陶はつくられていません。また十五世紀初期、波多氏を始め九州、中国地方の豪族は、李王朝と契約して歳遣船貿易を行っていました。
歳遣船貿易は、李朝の四代世宗(在位1419~1450)が対馬の宗氏を介して始めたもので、一年間に一ないし三艘の交易を行いました。
貿易港として朝鮮南部の塩浦(蔚山の郊外)、釜山浦(釜山港)、せい浦(熊川港)の三港が開かれました。
三港の近くには多数の窯があり、李朝三島技法が使われていたにもかかわらず、岸岳古唐津に三島技法が皆無なのは不思議なことです。

唐津物,(からつもの)

近世、陶磁器の主産地が唐津と瀬戸であったところから、陶磁器を主に東日本では瀬戸物、西日本では唐津物と呼びならわしてきたようです。
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茶道辞典,淡交社より

今日でも瀬戸内海沿岸、山陰、北陸から新潟県までの日本海沿岸では,焼き物のことを「唐津」又は「唐津物」と称していたようです。
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古唐津(こからつ)

江戸中期以前の唐津焼を総称して言います。

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