加藤五助 かとうごすけ

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鶴田 純久の章 お話

尾張瀬戸の陶家。
代々同名を襲います。
その家祖は陶祖景正十八世の孫加藤源太郎の長男で、‘名を五助といい陶治と号しました。
1795年(寛政七)分家して陶業に従事すること二十五年、1819年(文政二)製磁に転業。
以来その原土の選択、施釉の法を研究し、初めて組盃を製し、また磁質の青磁釉を発明し厚手小皿を製出しました。
時の人はこれを五助玉淵小皿といって賞用しました。
1825年(文政八)退隠。
二世五助は天外と号し、その技は父に劣らず、原土の強弱に応じてその分合の法を斟酌し、ついに美麗精妙な青花を製出しました。
1833年(天保四)退隠。
三世五助は陶庵と号して父の家業を継ぎ、以来父の遺法に従ってますます心を素質選択のことに傾け、数種の原土を淘汰してついに一種の良土を得ました。
方言でこれを白画といいます。
その他陶庵の発明したものは数知れないようです。
1863年(文久三)に退隠。
四世五助があとを相続して陶玉園と号し、常に前代の遺法に従い、なお進んで素質の精選、図案の意匠などに心を注いでします。
中でも自ら案出した著名なものは、白磁および青磁の釉に白盛の浮上文様を描き出した器で、非常に優美鮮妙で近時の良工であります。
1898年(明治三一)退隠し陶玉と改名。
五世は辰之助か父の家を継いで五助と改称し、また陶玉園と号しました。
斯業の練達はまた父に劣らず、家声はますます振るいました。
なお四世五助の印款は所掲の通り。
(『をはりの花』)

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