安土・桃山時代から江戸時代初期にかけて、わが国より朝鮮に見本を示して誂え焼かせた茶碗その他。『万宝全書』高麗焼物之類の条に「御本手利休織部本なり是は両人共に公方より御本を受物好を加へ高麗へへ遣はされしを本のごとくにし有本朝へわたりたるを御本手と云次第に御本◇茶碗鉢皿香炉万の道具有薬色は白し」「喜斎御本手呑口うすし」「玄悦御本手御室茶「碗のうつしなり」「茂三御本手類色々にしてりきみあり」とある。右のうち喜斎御本手は詳かではないが、玄悦・茂三は対馬の陶工で、寛文(1六六1173)から貞享(1684~8)の間朝鮮に渡って釜山窯において製陶に従事したことが対馬の旧記にみえる。織部御本・遠州御本などのほかその土味によって砂御本と呼ばれるものがある。またその絵模様によって立鶴・梅鉢・葵紋付などいろいろある。おおむね白土に赤味を帯びた黄色の鼠がかった釉を施し、多くはこれに白釉・鉄・呉須などの絵模様がある。立鶴の絵は将軍家光の下絵であると伝えられ、また対馬の伝説では狩野常信が天和年間(1681~14)に画工とし釜山窯に渡ったという。御本の土には淡い紅梅のような赤味がぽつぽつと点在し、茶の緑色を引立てるとしてこの赤味はことに喜ばれ、特にこのぽつぽつを御本と呼ぶことがある。(『万宝全書』『高麗茶碗と瀬戸の茶入』『朝鮮方日記』『宗家記録』『釜山窯ト対州窯』)
御本(ごほん)とは、手本をもって作られたという意味。本品は、三代将軍徳川家光(1604~51)が鶴の絵を描き、小堀遠州(1579~1647)が切紙をもって朝鮮に注文したという伝承があります。
当時、対馬藩を介して、朝鮮の釜山のやきものが多く日本にもたらされていました。