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鶴田 純久の章 お話

大名物
重要文化財
高さ:6.8~7.0cm
口径:12.5~12.8cm
高台外径:4.0cm
同高さ:0.6cm

わが国に伝世した油滴天目のなかでは、若州酒井家伝来の茶碗と双璧とされていますが、形の整っていることではこの茶碗がすぐれ、油滴斑が大きくあざやかなことでは酒井家のほうがまさっています。
この油滴は、管見の建盞天目中、最も美しい形姿のものであるといえます。建盞天目はいずれも同様の単純な形態のものですが、その類型的な形姿のなかにも多少の大小とやせとふくらみがあり、この油滴は胴に張りがあって作ぶりもおおらかで、ことに高台ぎわから口縁にかけての線が優美です。銀鉄的の斑紋は、酒井家の油滴と比べるとやや小さいですが、釉中一面に天の川のようにみごとに現れ、ことに内側面の粒はそろつて美しいです。
裾から高台にかけての二条の釉なだれも絵に描いたようにくっきりとしており、総体一つとして欠点がなく、まさに完全無欠「真」の茶の茶碗として最高のものといえます。
伝来は、古田織部所持の後、土井大炊頭利勝に譲られ、さらに豊後日出の木下和泉守長保の有となり、木下家から江戸の道貝商伏見屋の取り次ぎで松平不昧公の蔵となって、以後太平洋戦争後まで同家に伝来しました。
松平不昧公はヽこの茶碗を、蔵品中の大名物の部に列し、「喜左衛門井戸」「細川井戸」「玳皮盞」「粉吹」などの名碗とともに、文化八年九月、「天下名物也、永々大切可致者也」という遺訓を、’嗣子出羽守斉恒に書き残しています。
『伏見屋覚書』によると、金二十枚で、不昧公に取り次いだとありますが、『雲州名物記』には「油滴 七十両」と記録されています。だが、もし七十両であったとすれば、喜左衛門井戸の五百両、玳皮盞の二百両に比して、あまりにも低い評価であり、金二十枚ならば、十両大判二十枚ということで二百両となり、玳皮盞と同額ですから、おそらく『伏見屋覚書』の、金二十枚が正しいのではないでしょうか。
内箱の「ゆてき 天目」の文字は千利休筆と伝えられ、質素な桐柾目の箱であり、外箱は不昧公調製の、みごとな箱で、「油滴天目」の文字はもちろん不昧公自筆です。茶碗の袋は紫羽二重、緒つがり紫、内箱の包み物は更紗。ほかに白地小牡丹古金禰の袋が添い、その箱には「油滴 袋」と、やはり不昧公が書き付けています。また『諸家名器集』では、内箱の書き付けを古田織部と見ています。もちろん、古田織部以前に伝来していたものであろうが東山御物であったか否かは不明です。
帯庵文庫中の記録によると、かつて銀覆輪が口部に覆われていたようにしるされていますが、『大正名器鑑』に所載されたころはその覆輪はすでになく、いま覆われている金覆輪は昭和四十一年に松江で催された、不昧公二百五十年記念展出陣に際して金工家中野恵祥に現所持者がつけさせたものです。
(林屋晴三)

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