古田織部 ふるたおりべ

古田 織部
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鶴田 純久の章 お話
古田織部 ふるたおりべ
古田織部 ふるたおりべ

茶人、織部流の祖。山城国(京都府)西岡城主。
1544年(天文一三)生まれ。通称左助、初名景安、のち重然。織部正に叙任されたので世に織部と呼ばれた。宗屋・印斎と号し、大徳寺の春屋禅師から金甫の道称を授けられた。美濃国(岐阜県)に生まれ土岐氏に属したが、のち信長に仕え旗本番となった。妻が中川清秀の妹であったのでその軍監として功があり、1585年(天正一三)従五位下織部正に任官され、山城西岡城主として秀吉から三万五千石を賜わった。1598年(慶長三)名跡を実子の山城守重嗣に譲って隠居。関が原役には東軍に属し家康から改めて七千石を給せられ、亡父の遺領三千石と合わせて一万石をもって養老の料とした。1614年(同一九)大阪冬の陣に徳川方として出陣したが、末子九八郎重行が大阪城秀頼の小姓であったところから、豊臣方に内通し家老木村宗喜に二条城に放火させ五百騎をもって挾撃を策したという嫌疑により罰せられ、1615年(元和元)六月十一日伏見の自邸で切腹した。この時四人の男子もみな同罪となった。一言の申し開きもしなかったと伝えられる。72歳であった。織部はすぐれた武人であったが、また実父重定がのち勘阿弥と称して秀吉同朋衆であったという家系を受けて、早年より細川幽斎へ出入りし、歌道を三条西実枝、連歌を里村紹巴に学び、また曲舞太鼓をもよくした。
いつの頃からか茶を利休に学び、その茶名は1582年(天正一〇)39歳頃から文献にみえ、自会としては天正十三年(1585)二月十三日の会が『天王寺屋会記』に初めて記録されている。
のち秀吉の御伽衆となり、利休の没後は伏見城山里の造営に当たり、秀吉に次ぎ家康の依嘱をも受けて将軍秀忠の茶湯師範となり、1610年(慶長一五)には江戸城へ招かれた。このようにして織部は、やがて天下の名人・当道の師品として公家・武家・京堺の茶湯者らの崇敬帰依を受けた。
そのことは「多聞院日記』『駿府政事録』などの明証するところであり、「御物数寄古田被致候所円座御手自ラ古田ニシカセ給フト也、依之諸大名殊外古田ヲ敬ウ、駿府ニテ輝政様ヲ始メ於御館諸大名列座ニテ料理中半古田被来皆座ヲ立テ膳ニスハラス」(『烈公間話』)という有様であった。織部は常に道の師である利休を尊び、その親ただならなかったことは、1590年(天正一八)小田原の利休から従軍中の織部に送られた竹花入「園城寺」「音曲」に添えられた狂歌入りの文、翌年利休が秀吉に罪を得て堺に下った時、見送った者は細川三斎と織部の二人だけであったこと、遺品としてナミダの茶杓を貰ったことなどからも知られる。茶の湯の弟子は大名・堂上公家・門跡・大町人などすこぶる多数に及んでいるが、中には織部との連歌の「両吟百韻巻」を残した近三藐院信尹や、陶器の本阿弥光悦らがいた。
【織部の茶】織部の茶風はその置かれた時代と地位から、利休の茶の収縮無味の内的志向に対して新しく造形された開放的色彩性をもち、自ら「はなやかにうるはしく晴やかに静なるやう」(『茶譜』)と称し、例えば露地については、利休の渡六分景色四分に対し織部は渡り四分景色六分と異風な埋込みの織部灯篭を創案し、たたき露地に長短の切石・長石を敷込み、枯木を立て袖摺松や花のある木を植え、高手水鉢・貴人石また色紙・塗り床框などを考え、また茶会の席に相伴席や鎖の間を併用させた。陶器においても自らの意匠を瀬戸・美濃・伊賀・備前・唐津さらには朝鮮にまで遣して、いわゆる「ひずみたるもの」「ヘうげたるもの」など異風の強力な新しい造型を出した。これは豪快な金碧燦たる障壁画にみられる桃山気分に照応し、また一つには多彩な南蛮趣味からもきていると考えられる。このような織部の風は当時「古田織部なる者有り毎ニ天下一と称す、花竹を栽植し茶屋を製造するもの、必ず黄金百錠を以て一品題を求む、炭を盛る破水を汲むの木桶、若し織部の称賞といえば則ち更に価を論「ず」(『看羊録』)とて朝鮮人をも驚嘆させたが、かまちこれは将軍家の師範を背景とした「武門の茶」の要請から出たものであり、やがてこの織部風を封建制の枠内で継承し整理規画化したのがその弟子小堀遠州であった。※おりべやき

1544~1615年。桃山時代の武将、茶人。徳川秀忠や遠州の茶の指導にあたり、利休亡きあとの茶の湯の世界の中心人物でもありました。
織部焼も、彼の好みによるといわれています。

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