重文。
南宋末に大慧の法系に出た物初大観が、黄山谷筆の杜甫の詩が石碑に彫られた際に、それに付した跋語の原文である。
格別、禅の宗旨を含んではいないが、物初の墨蹟として、また南宋末の文学禅的傾向を示す一指標として興味深いものである。
物初大観は法を敬叟(北硼) 居簡に嗣ぎ、五山の名刹育王山広利禅寺の第四十四世住持となった。
「金渡の墨蹟」で知られる拙庵徳光の法孫、大慧宗果の法の上の曾孫にあたる。
師の北硼居簡ようごは『北碉集』十九巻をのこしたほどに文翰の才に富んでいたが、物初もまた詩文に巧みで『物語』五巻をのこしている。
物がこの跋文を書いた咸淳三年(1267)は、元の世祖の至元四年にあたり南宋の最末期で、「玉山人」とある点からみて物初の育王山在住時代である。
したがってこの墨蹟は晩年のもので、謹厳なうちに枯淡な風格をもつ彼の人となりがよく流露している。
黄山谷(庭堅)は北宋末に出て蘇軾(東坡)とともに文名一世を圧した大詩人で、徽宗皇帝の崇寧四年(1105)に61歳で没している。
山谷は臨済宗黄龍派の晦堂祖心・死心悟新らに参じて開悟した居士で、その詩はそれだけに後世まで禅僧らに愛誦された。
杜甫は李白と並び称された唐代の詩人で、その詩境の円熟した40歳代を安禄山の大乱騒ぎのうちに過ごし、代宗皇帝の大暦五年(770)59歳で没。
【付属物】箱書付久須美疎安筆
【寸法】本紙―縦28.1 横55.3