国宝。
建長寺開山蘭溪道隆が、一山の徒に対して本格的な禅僧の心構えを訓諭したもので、一山の徒の怠惰を戒め綱紀粛正するために示した「規則」の幅と双幅をなし、相まって彼の厳しい禅風を今に伝えるもので本墨蹟は、当時の日本禅界のたるんだ気風と、これを改革しようとした蘭溪の峻厳な態度とをみるべき、日本禅宗史上の史料として貴重なものである。
「無漏道」とは、いっさいの迷いや苦悩を離れた清浄で不易な大道のこと。
禅の修行の目的はこの大道を体得することにある。
その書風は名書家張即之のそれに近く、やや雅味に乏しいきらいはあるが、寸分の緩みもない謹厳で強い書風はさすがなもので、彼の禅風のほども察せられる。
蘭溪道隆は西蜀の人で、幼少で出家し教宗を学んだのち、禅に帰して無準師範・癡絶道沖らに参じ、無明慧性の法を嗣いだ。
嗣法後、天童山に掛錫していたが、入宋中の日本の律僧月翁智鏡の誘引を受け寛元四年(1246)来朝、筑前円覚寺・京都泉涌寺来迎院に寓住、のち鎌倉に下り、北条時頼に請ぜられて粟船の常楽寺住持、建長寺の開山に請ぜられた。
その後讒言にあって再度にわたり甲斐に流されたが、寿福寺に再住、建長寺に三住し、弘安元年(1278)66歳で示寂。
のち大覚禅師と諡されたが、これは日本における禅師号の最初。
会下から約翁徳倹・桃溪徳悟らの傑僧が輩出、その法系は大覚派と呼ばれ、鎌倉中期から南北朝時代の禅界に重きをなした。
【寸法】本紙縦85.0 横41.0
【所蔵】建長寺