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付藻茄子 松本茄子

付藻茄子一名松永茄子又九十九髮 漢作 大名物
松本茄子 漢作 大名物

男爵 岩崎久彌氏藏

名稱
付藻は江澤藻江浦草、又作物とも書す。伊勢物語に
百年に一とせ足らぬ九十九髪 我を戀ふらしおもかけに見ゆ
とあるに由り、此茶入を「つくも」又は「つくもかみ」とも云ふ。初め珠光が九十九貫にて之を買取りたるに基くとなり。相國寺惟高和向の作物茄子の文にも「此寶壺以有百關一數之事而本古歌之意以名作物」とあり。又松永久秀が所持せしに由りて松永茄子とも云へり。
松本茄子の名稱に就きては其確證なし、或は珠光の弟子松本珠報の所持せしものならんか。本朝茶人系譜に、「松本珠報は永昌坊正楽といひ、上京に住す、一書に畠山政長公に仕へ 或云山名臣、應仁大亂の後浪人して南都に住す、祕藏の茶入あり、南都土門氏の家寶也、今松屋肩衝と云ふ、一名松本肩衝とも云ふ」とあり、左れば此人の所持せし肩衝を松本肩衝といひしが如く、此茄子も此人の所持せしに因りて松本茄子と稱せられしに非すや、暫く疑を闘いて後の識者を俟つ。

寸法
付藻茄子
高 貳寸參分半
胴徑 貳寸四分半
口徑 九分
底徑 九分又壹寸
甑高 參分五厘
肩幅 壹分五厘
重量 貳拾匁四分

松本茄子
高 貳寸壹分五厘
胴徑 貳寸参分參厘
口徑 九分
底徑 九分
甑高 參分参厘
肩幅 なし
重量 拾七匁九分

附屬物
一蓋 象牙 窠
一御物袋 白羽二重緒つがり黄
一挽家 黑塗
袋 黒天鵞絨 裏紫海氣 緒つがり藤色
一箱 黑塗 書付金粉
付藻
松本茄子
一蓋 象牙 窠 火に逢ひたる様なり
一御物袋 白羽二重 緒つがり白
一挽家 黑塗
袋 黑天鵞絨 裏薄鼠海氣 緒つがり藤色
一箱 黑塗 金粉字形
松本茄子
一內箱 桐 黑搔合塗 錠前附
箱の桐四方に注連縄の蒔繪あり箱内を仕切りて兩茄子を納む
箱蓋書付 金粉字形 如次
自東照大権現宮拜領 付藻 藤元 松本茄子 藤巖
一外箱 桐 白木
裏書付如次
明治十三年作 岩崎氏
一總箱 檜 白木
茶器
一添卷物 一軸
從家康様
付藻 松本茄子 拝領之次第
一元和元年 卯五月七日、大阪落城而後同五月二十八日二條從御城藤重藤元、藤巖、父子兩人被食出木多上野殿奉行ニテ、今度秀賴公祕藏之茶入名物は、敷多可有之也若自然燒殘之道具一ツ成共於有之者重寶之儀被思召候大阪御城燒跡へ急藤巖罷下縦わをくだけたる道具たりと云共、随分相尋拾集、少もちらし申まじきとの上意にて、急大阪へ罷越、名物之御茶入有所大形土臓の邊能々算合可仕御掟被仰付同日夜舟にて大阪へ罷越數日の間夜分の無差別土灰中を掘穿、如案名物之御茶入、其外われとも急尋出し先假継に仕六月十二日京都へ持登申御茶入、
一新田肩衝
一志き肩衝
一玉かき文琳
一小肩衝
一大尻張
右五之名物、二條御城致持参本多上野守殿以指上申處家康樣被爲成御覽殊之外被成御御前之御座間近藤元藤巖を召出御目見へ仕候處扨々希代不思議名物共尋出し申義前代未聞之上意にて御機嫌能御前罷立則御褒美米百石廿人之御扶持方被下候旨、本多上野守殿奉行に 致拜領事誠家之眉目冥加至極成仕合難勝斗此上未大阪ニ相殘名物共以て尋出上意にて、同十四日に大阪へ罷越色々土灰をふるひ名物之わを共悉又さがし取出し、かり継仕御茶入、
一付藻
一宗薰肩衝
一針屋圓座
一松本茄子
右四ッ御茶入其外かけ共餘多拾出同六月廿六日又京都へ罷登致登城上野殿以上申處に彌々御歡悅不輕、猶更繕など出精力晝夜共裃上可申上意にて、九ッ之御茶入私宅へ被下同九月十六日迄かゝり継立指上申所に、一人の御機嫌にて、御前へ父子兩人被食出藤重日本一九重寶者也古今不思議之手涯不及云古細工爲後代驗 ミとの御上意
にて、御手より直付藻を藤元、松本茄子を藤巖に被下、相殘われかけ共拝領家傳之秘術鍛錬子々孫々至迄、一門榮不絶様に被仰付儀、家の眉目、一期之覺、何事加之。其後家康様駿府御下向に付於水口宿黄金拾枚御褒美と被爲成、松平右衛門太夫 御折紙にて致拜領事、彼是辱仕合者、偏二春日大明神之相計、御冥慮者哉と、奉信仰者也。
一度就大阪落城御茶入之元來委子細は、於御前本多上野殿扨々此度大閤以降名物之天下道具及燒儀、多御事也、自然爲燒殘道具一ッ成共取出候へば、御重寶之儀御座候間、藤巖被差遣被爲尋度御事哉と、(一字不明)理雖被申上、更二以家康樣一圓不被成御承引結句還て上野被成御言日本第一之城去大物を下誠争少(以上四字難解)花車成物不可有芥子形義御諚也、猶以上野殿惜忠言藤重父子へ右趣之旨有密談藤巖不及辭退随分罷下勵精力尋出可申口振付、押返亦上野殿萬一掘出御物於難成物は下々迄被下重寶之由頻而敬言被申上時、於其儀の先藤巖指下見可申之上意也扨急藤巖大阪焼跡迄罷越晝夜評議而從土灰中右九ッ之名物共抓出京都へ持登御前へ指上申時、家康様ハ事外大御驚被爲成仰天寔御不尋常御前之仕合、藤重名揚天下事始終上野殿才智依、催名物之御茶入無恙御代傳來者也。
一本多上野殿も右申上次第首尾都合而種々御褒美辱上意候共世間之聞外實旁以家榮之手柄也と御喜悦にて、銀子拾枚、小袖一重宛銘々雨八二被下上御前御取成之儀無比類於然は藤重門家、一日片時も不傾遊戲之道我家之所作堅守可相守者也爲後日仍如件。
一駿府へ御下向前、右御前二留り申七ッ之御茶入、何にも蓋をも藤重能相好袋を仕上げ可申旨被仰付何も御下向前出來上ヶ申候。
元和元年
十一月中旬日

雜記
付藻茄子 高さ二寸三分強、肩より底迄高一寸九分強、口差渡外法一寸、底一寸、糸キリ、胴差渡大サニ寸四分半、胴廻り尺にて七寸七分蓋象牙、袋白茶時代純子、但紐むらさき替袋木綿廣東、茶と御納戸竪万筋、横に茶の子持すじ二筋の外端片か に有之但紐むらさき焼黒く青みをもち、アカ茶色のかゝり、一圓にむらむらとして不及筆端(茶入圖あり)。右付藻松本二つの茶入並袋由來書とも、故ありて予暫くあつかり置熟覧いたす處質に天下の名器といふべし仍而寫置もの也。
天保二辛卯七月初旬三井道生。
 (岩崎家所藏附屬書類)
江澤藻 信長公所持。 竪二寸、横二寸四分半強廻り七寸六分一寸、口一寸、膨み八分土靑く黒なり、朱燒に丹多し(茶入圖あり)。 (万寶全書)
付藻茄子 天明六年拜見、一體藥栗色地土鼠土あめ置方茶色あめ藥、松屋肩衝あめ藥より茶がかって艶なし、所々にあり至て見事、底土鼠土水かゝり赤みあり、飛藥あり、糸切の中一所土を見る(説明附の茶入圖あり)。 (茶入名物記)
つくも茄子 袋二、白地唐物純子、木綿廣東挽家黑塗面取袋黑びろうど、箱黑塗、金粉にて付藻とあり、本糸切(茶入圖あり)。 (吉盆鴻爲著茶入圖解)
付藻茄子 拜領、藤重藤元所持。口差渡一寸口たちあがり二分強、まはり七寸六分、底一寸、左糸切高二寸三分五厘強、横張二寸四分半に強。蓋象牙ス、轆轤片々、裏張時代金紙袋木綿廣東 裏赤紺海氣 緒むらさき、小豆廣東 裏、白地白菊枚 裏海氣 緒紫、靈芝之地紋純子、挽家袋黑天鵞絨 裏大やつれ玉虫海氣 緒むらさき、外箱挽家眞塗、金粉銘、外箱黑搔合「付藻藤元松本藤巖」粉字形外に注連飾蒔縮有之、其殊勝なる事天和二年傳來書卷物相添藤重家之傳來天保二年秋八月二十七日名越酒五郎殿に至而強而得て一覧、依之再寸法等相改置也(茶入圖あり)。 (編者不知諸家名器集)
天下に上々の茄子は作物小茄子、松本茄子富士茄子此四つなり右の内一の大きなるは作物也、口は惣一せばし、又惣一ちひさきは小茄子なり(中略)作物の口狭しといふとも、一段見事なり、狭きが能きにも悪しきにも定まらず、廣きも大小も、兎角其物體々のやうす次第也、喩へば美人と云へば、口きかきか大小鼻によるか目によりて美人と云ふか顔の道具大小にても其人々の相應により美人と云ふ、諸道具是にて可心得者也。 (松屋日記)
つくも茄子 信長公御所持。 (天正名物記)
つくも茄子 內大臣信長公。 (東山御物内別帳)
作物茄子 信長公總見院殿御代に京の本能寺にて火に入失申候、此壺珠光目利に出候其中傳方々取散し、越前淺倉太郎左衛門五百貫に所持して、其後同國府中小袖屋千貫に申請其後一亂に京の袋屋に預候處、京の法華宗亂に失候とて不出候、松永以分別取出廿ヶ年所持の後信長へ進上候本能寺にて失せ申す、天下に四つの小茄子(珠光紹鷗似たり付藻)の一つなり。 (群書類從本茶器名物集)
ツクモ茄子 内赤の盆に居る、金襴の袋に入る、総見院殿御代に本能寺にて火に入失申候、代九十九貫なり、此壺珠光目利にて共申傳、越前の淺倉殿所持也、其後利休目利、同國府中小袖屋五百貫に取也、千貫には主多御座候を國の亂に京の袋屋に預候が、法華集亂に失申候とて未だ出す候を此十ヶ年以前に出候て、信長公へ上り申候、ツクモカミ土藥形比無申所候古人も天下一の名物と褒美仕候。 (山上宗二茶談)
松永久秀も和州退治を承る事身に取ての面目なりと大に悦び彌々信長の氣を攬り追従して天下一振の名物吉光の小脇指とつくも髪と名付ける名物の茶入を奉て、日々信長に媚諂ふ。 (重編應仁記)
江蒲草茄子 総見院殿御代に火に入り失候、本能寺にてなり、此壺珠光見出し御物に成る、其後方々へ傳はりて、越前の朝倉太郎左衛門五百貫に所持候、又同國府中小袖屋千貫に申請け、國の一蹴に京袋屋に預け候處、法華宗亂に失候とて不出候、松永分別を以て取出し、廿ヶ所持後、信長公へ進上候。金襴の袋に入る四方盆に居る。土藥なり、此口作り天下無双と古人申傳へし也、大形は土靑めに黒色也、おもてはひと色の様にて、そばへ寄り候へば、上藥かたかたより、頽れかゝり、少し底へ廻り、露先に蛇蝎心もあり、脇にも朱土見ゆる前にては地藥の薄柿見へ、うしろにはキシリと見ゆるなだれは一つなり、所々地の柿色見ゆる、石間は壺の右の方に有り、壺に向へばこの方の左なり。指の先にていじりしと見ゆるその脇をソトすりたる物也、間々は薬とちかつき申候、糸切は底なだれの後にてとまり、口はヒラリとして上より見れば少豆の様なる心は、ひねり返しの事也、腰の帯ふくらの上にあり、ふくらは少しさがりたる也、大形此様なる口心也。 (茶傳記録)
江澤藻 三好宗三は希雲の弟實休の叔父秘藏の茶入あり、九十九髪といふ、伊勢物語に江澤藻とあり。 (茶人大系圖)
三好宗三 實休叔父、希雲弟也、秘藏の茶入あり、九十九髪と云九十九髪は伊勢物物語に註に、江澤藻とあり、此茶入諸人能知ると雖、大家にかくれて今たやすく見事不能。 (本邦茶人系譜及び茶事談)
信長公へ宗易此肩衝(喉)御挨拶申のみにあ ず、是より向き、作物の御茶入の袋を易へ仰付けらし時、此作物記を相國寺惟高和尚書たりしと聞、汝知らずやと宣へば、さん候松永彈正茶の會席にて一覧申つるが、天正五年の亂に、信貴城にて焼失せる其寫堺に御座候とて、取寄せ差上侍る。 (茶話指月集)
東山殿御物數寄たくみにして天下の名物多くあつまれる曲つくもかみといふ茄子の茶入も此公の御物也。 (久保權太夫著長闇堂記)
松永茄子茶入記 其比天下名物作物茄子ノ茶入大臣家(信長)御所持也。此茶入ノ記洛陽相國寺惟高和尚逸作ト云々。此記文今年和州信貴城ニ於テ燒失セシメス依之此事又惟高和尚へ御有之處二、和尚先年松永方へ被書渡候記文ノ寫於今所持セラレ候間、則之ヲ被差上候、大臣家御感悅也其記二日ク。
古諺云、夫物以遠至爲珍事以稀見爲貴矣茲有珍寄賓物、其體質也具軒后 軒轅皇帝 之德色其狀貌也類埧裏之彭亨焉。相傳曰、往昔中華 京師 造蓬萊假山 盆山 山頂安置小寶壺號如意寶珠遠贈我扶桑國以不詳年代爲遺憾矣載有黄考日碑云。如意珠有梵曰摩尼其祥瑞美德不可勝計焉、日本第一天下無雙之尤物爲席上可居奇貨也小有匹偶此者是名小茄較之則香壤胡越而已、可同日言耶中間於此寶壺以有百闕一數之事本古歌之意以名作物易名無異論者乎四肘弓量以齊棋樹倭朝俗呼日御多羅枝之流亞遞代大樹十襲祕寵焉碌々賤輩介爾不得眼也、自異域跨歷萬里而以遠而珍以稀而貴者夫是之謂歟。鹿苑相公(足利義満)向內野戰場之時、金甲裏繫之随身、其御愛保重可知焉。近來慈照相公(足利義政)以之忝賜山名禮部(政豊)其以男色寵幸故也。自後の華矣攘搶、此賓沈淪落賈鬻手淹委塵土世所蹙額慨喟也。先是天文丙申台宗講徒中闘諍、鉾楯起亂 俗謂之法華亂、京城寶玉燬焚分散寶壺亦隱埋、殆爲可惜矣。有好事者千方百計、東討西討不知所在技盡于此粤藤原朝臣松永彈正少弼久秀、握國家政柄權威畏服繇是永祿戊午(元年)之春、偶有資持寶壺至者副以七寶壹 七壹内也、玻瓈盞 天目、可謂摩尼 謂之賓長 在處衆賓悉集焉、且又妙典説、無上寶楽不求自得、金言可徵集矣。集以大成。異哉慶幸之甚蔑以加焉可嘉可尚矣。竊按漢史順帝朝孟嘗伯周任合浦守宰爲人道徳清行、

革易前弊、去珠復還 合浦因前守宰貪欲也海底賓珠散在於他海域時孟嘗伯爲合浦官令時復賓珠悉還也去來可見之、稱爲神明、千古美事昭昭於簡冊矣。今也久秀徳行所化、寶壺如意珠一去復還、玄又玄、奇又奇不意日城海隅、複観合浦孟伯周焉。秦始皇帝聞倭國有蓬萊仙島遣來徐福求長生藥徐福至于南紀之金峯止于東駿之富士指此等地以爲蓬萊蓬萊方壺爲神仙一靈境也、當世韻人佳士靡然嗜陸桑苧盧玉川之事業家家人人貯蓄十器一陶晞顔苧翁慕藺川子川子嘗作茶歌歌六腕通仙靈七椀蓬萊在何處茶是仙家瑞草也、公官暇日、兵衛畫戟寢清香、興佳客會飲賞味壺中仙苑嶼終日清談消遣世慮兩腋習 身裏七十蓬萊、三萬弱水、不移步而自至山頂延壽還童顔色如桃花者必然則此一壺者、如意上上寶珠也、世間綺羅珍玩、縦使積齋北斗以可塵視塊看焉珍重至祝、松氏需予記事予痴兀退納肯措片詞命史穎也、漫記之。
時永午夷則如意珠日 萬年龜洋派下巢葉懶安叟
 (総見記)
或岩時作物の茶入茄子の袋を、千宗易利休居士を以て藤重に被仰付し時、相國寺惟高和尚此を書きたりし也、汝不知と宣へば、松永茶の會席にて一覧申つる、其は信貴の城にて焼失畢ぬ其寫も御座有べく候捧申さんとて境より取寄奉る、其記曰(漢文略、前揭總見記に同じ)。 (太閤記)
弘治四戊午年(永禄改元)九月九日晝 松永殿御會
道陳 宗久 宗二
床 ツクモ茄子四方盆に、手水の間に取りて、床ソロリ白菊生て云々、ツクモ茄子高二寸三分胴二寸三分半、口一寸底一寸、袋かんとう、緒あさぎ(茶入あり)。 (今井宗久日記抜萃)
永祿三年二月廿五日 松永殿御會
床 なすびつくも、四方盆に、袋白地金襴あさぎ、緒緒唐右御壺藥一色也、氣くくみて、形ヒラリとあり、かたちすき、盆付一人に候土よしあさぎ心、紫心の所少しありて、朱二方より焼出し、底裾は三方にあり、筋一通りあり、少しさがりて三分一程筋きえ候、ロソトかけ候か捻返しよく石間の様に見え候所あり、それをよろひのあひにてすれたるなど申候か惣てつくりろくろ造りか、頭きはソトおし入候、つゆさきにてソト朱をさし候、溜りは黒きのやうに候。 (津田宗及茶湯日記)
永祿五年十二月 於多門山御茶湯 松平彈正少弼殿
成福院 醫道三 久政 境宗可 竹内下總守
つくも 金襴の袋に入 袋の緒淺黄
 (松屋日記)
永祿八乙正月二十九日 於多門山霜臺(松本久秀)御茶湯
客 堺隆専(一本隆仙) 宗易 久政 末座宗可
北向四疊半左構、床に作物四方盆軸はづれに、袋は金襴御茶は森の別儀なり、茶無上、ヤラウに入、高中茶碗、御茶の水は宇治三の間の名水也。 (松屋日記)
永祿十一年辰十二月十日之成之刻北才木町木屋宗はつ方にて、つくもなすび始て拝見申候。
此壺形平めに見え申候、ころ大形也、土あまり細やかにはなく候藥色赤黒く候、右此壺思の外にくすみたる壺也、表のなだれなどは、なだれの様には見え不申候、薬にじみたやうに見え申候也、盆にてとまり候、なだれの左右にこんじたる所あり石間は壺の右方にあり脇よりは少し後のかたにあり、色藥少かすはげたる様に見え申候藥薄きやう也土朱したゝかに出したる地、但なだれの右方にあり、底は糸切はけめ丸くあり、一段土厚に見え申候、口作り缺けたる樣にあり、捻返しなく内へ藥少かかりたる也、石間とおぼしき所は少し上へ高くあがり申候、申候乍去目にはたち不申候、肩より石間ゆび一つおきにして、ほど下に有之、帶は少しさがり申候、肩少し衝き申候、肩も中高なるやうに見え申候帶は一筋あり、壺はげ高には見え不申候、口などは蓋を仕り候へば大なるやうに見え申候へごも、捻返しがヒラリと御入申條、口の内は狭く御座候、壺の年は四十ばかりなるものを見るやうに候くすみたるとは見え申候へ共、又花やかなる所もあり、捻返しの下方少し土のあるか、盆付はすき申候壺の中時分より下の方にて、腰張りに見え申候此御壺の上にても、土などはおもはしも無く候か、石間などもねがはくは能くもなく候、此石間土などに御座候は、さのみ目には立ち申まじく候へ共の中に依有之、相當仕りぬやうに見え申候乍去此石間はヒマとも昔より申傳候、又ある説には、山名殿具足の袖に着けられて、疵がつきたるなども申傳候、兎角左様には見え不申候、壺の生れつきにて御座候、惣別此壺賤しきやうにはなし、餘りに位あり過ぎたるやうには見え申候、拙子文琳(宗及文林)などよりは、茶入まし候乍去ちがひと申共少しの事にて御座候はんと存候。蓋象牙、但きりめなり、榎の實つくなり、玉縁あり、蓋一段厚くあり、紙内へふくみなどは、一段ふかく有之、唐箔なり、袋白地きんらん、但金地なり、裏あさぎ也緒つがりあさぎ也此かた・ りは小さくあるべく候(茶入口の圖あり)。 (津田宗及茶湯日記)
永祿十一年一月二日に、池田の城筑後居城に御取かけ信長は北之山に御人數被備御覽候(中略)。今度御動座の御伴衆末代の高名と、諸侯存之士力日々に新にして、戦如風發攻如河決とは、夫れ是を謂ふか池田筑後守被降參人質進上の間、御本陣芥川の城へ御人數被打納五畿内隣國皆以て被任御下知松永彈正は我朝無双のつくもかみ」進上申され、今井宗久是又隠れなき名物紹鷗茄子進獻往昔判官殿一谷銭かいが嶽召さられし時の御鐙進上申者も在之、異國本朝の棒珍物信長へ御禮可申上と、芥川十四日御逗留の間、門前市をなすことなり。 (信長公記)
元龜二年八月十二日 信長殿岐阜御出城御飾
御床 長盆に作物茄子袋に入て云々、つぼ各拝見して棚の上にあぐる、御床に菓子の繪かかる。盆の内に犬山天目數臺、作物にならべて二つ置になる、茶筌置は信長持出て、如圭へ御渡ありて、則御茶有。 (木全宗儀氏本旁求茶會記)
天正元癸酉年十一月廿四日 信長樣於京都妙覺寺御會
友閑 宗久 宗二
御床 歸帆の繪 牧溪、前に三日月の壺、蕪なし花瓶、ぬり板に白梅澤山に、上樣(信長)御生け被成候、御臺子に大覺寺天目、蛟龍の臺に胡桃口、御茶入茄子ツクモ。 (今井宗久日記萃)
天正二年甲戌十月二十八日 於上樣(信長)御會
宗易 宗及 宗久 道設
御床 晩鐘御繪かけて、前に三日月の壺御臺子上にツクモ茄子袋に入て、内赤のに据えて云々。道三茶碗に茶筌入て、上様(信長)御手前にて御茶被下候。 (今井宗久日記抜萃)
天正三乙亥年九月二十八日、信長京堺の茶道者を呼て千利休をして茶を點せしめ、是を賜ふ。茶亭の床に遠寺晩鐘掛物 牧渓筆東山義政公所持也、葉茶壺、違棚には茶臺、白天目、内赤の盆、ツクモ髪と云茶入、其下に香合あり、松島の壺、乙御前の釜飾らる。 (武德編年集成)
天正三 十月二十八日朝 上樣(信長)御會、堺より御見廻り申たる衆。
床に暮鐘繪、前に三日月壺、白地金らん袋に入て棚の上につくも、白地金襴袋に入て、内赤の盆に、同上の數の臺に白天目、爐に乙御前の釜云々。 (津田宗及茶湯日記)
天正三年十月二十八日 京堺の數寄仕候者十七人被召寄妙光寺にて御茶被下候。
御床に晩鐘三日月の壺 三好笑岩進上候、違棚に置物、七臺に白天目、内赤の盆につくもかみ下に合子玄めきり被置、おとごせの釜松島の御壺の御茶、茶道は宗易。
各生前思出忝題目也已上
 (信長公記)
名器寄に、元和元年五月廿八日、藤重藤元藤巖父子を二條御城に召され、名物燒殘の物燒跡にあるべし罷越しょく穿鑿いたし可申旨仰付けるにより夜舟にて下向し、夜畫の差別なく土灰の中を掘穿ちしに、果して名物の茶入五つ尋ね出したり。まづ假継ぎ、六月十二日京都へ持上り申候、御茶入、新田肩衝、志貴肩衝、玉垣文琳、小肩衝、大尻張なり。御褒美として百石廿人扶持被下、同十四日又下向仕り、段々と吟味仕り土を篩ひ申候處付藻茄子宗薫肩衝針屋圓座、松本茄子四つ尋ね出し、廿六日京都へ罷上り差上候處、繕ひ仰付られ、九月十六日までに繼立出來仕候處。御威に被思召候由にて、付藻を藤元、松本茄子を藤巖へ被下元和元年十月中旬とあり。 (眞書太閤記)
藤重は姓也、名は藤巖と云、利休時代也、塗物は本業にあらず、慰に仕たる也、名人なりし故、關東に召出されて江戸に住す、其節亂世後にて破損せし名器の繕ひを被仰付其賞としてツクモの茶入を賜ふ、名物なり、今に
藤重の家藏なり、二代目より袋師となる、子孫今にあり。 (茶道筌蹄)

慶長五年 二千二百六十年 征夷大将軍徳川家康豊臣氏に代り大政を奏決す、此際漆工の妙手あり、重藤巖と云ふ、藤巖は原檀井氏に 奈良の人なり、家康これを江戸に召し漆を以て點茶に用ふる磁器の缺損を補修せしむ、漆を以て磁器の缺損を補修すること、此に始まる。藤巖又能く抹茶を盛る、所謂る中次といふものを造る、製周り五寸、高さ一寸五分、轆轤を以て造り之を中分す、故に中水といふ、合甚緊密にして風濕をして抹茶を侵さヾらしむ、故に入甚之を愛玩す。 (黒川眞頼篇工藝志料)
寛永十一年三月廿五日朝 京都四條藤重藤巖へ
四郎兵衛 久重(松屋源三郎) 二人
床 正印墨跡、古織殿表具軸脇に四方盆に作物茄子、袋に入て、袋木綿かんとう 茶とかきとあらし島也、中に白筋横にあり 四方盆内赤く外靑漆黒し(茄子茶入圖あり)、肩少しあり、口小さく見ゆる、黒し、糸切。蓋ふち高く、中おちいり、窠蓋なり。 (久重日記、松屋日記)

雜記
松本茄子 高さ口より底迄二寸一分、肩より底迄高さ一寸九分強、口差渡外法九分五厘、胴差渡大さ二寸二分八厘、胴廻り尺にて七寸二分半餘、底一寸、糸切。蓋象牙。袋雲鶴純子、御納戸雲鶴白茶、紐むらさき、替袋元は有之。今は無之(中略、記文前記付藻茄子に同じ)、天保二辛卯七月初旬三井道生 (岩崎家所蔵附属書類)
松本茄子 信長公所持。竪二寸、横二寸二分、廻り六寸九分、底九分、口九分、膨六分、土薄紅梅色(茶入圖あり)。 (万賓全書)
松本茄子 上樣。 高二寸、横二寸二分、口七分底九分茶入圖あり)。 (大銘茶入極秘正圖式)
松本茄子 拜領藤重藤巖所持。口差渡九分、口立上り一分、まはり六寸九分九分、左本糸切。高二寸一分、膨六分、横のはり二寸三分。蓋象牙窠。袋下妻どんす 裏紺地玉虫海氣 緒こん(今は無之)、雲鶴純子 裏御納戸茶海氣 緒むらさき。外箱眞塗、金粉銘。挽家眞塗、袋黑天鵞絨 大ヤツレ裏玉虫海氣 緒むらさき。近來藤元修覆、新に黒天鵞絨 裏茶琥珀 緒薄茶(茶入圖あり)。 (諸家名器集)
松本茄子 藤嚴所持。口外法九分五厘、盆付九分五厘、糸切上へはり上る。土を見る。箱黑ぬり。松本茄子 金粉(茶入の置方及底の圖あり)。 (幕庵文庫甲第十七魏)
松本茄子 内大臣信長公。 (東山御物内別帳)
松本茄子 信長公所持。(天正名物部)
元龜二年八月十二日 信長殿岐阜御出城御飾
御床に万里江山の繪かゝる、前に 左松島 右小島、棚の内は同前、火箸ほやなし、松本茄子方盆に入て、蓼冷汁天目を前の數の臺にすゑて、信長公兩手に排出候。床の前勝手に置て、茶筌入同前也。玄哉茶堂也。 (木全宗儀氏本旁求茶會記)
天正二年三月廿四日巳刻於相國寺上樣御會
堺衆に御茶被下半に宗及堺より上申而、一人に御茶被下候。御床五種の菓子の繪、方盆に松本茄子(中略)。御茶なつめに入て、上様御自身被成御持出候、かうらい茶碗にて御茶被下候、友閑茶堂也。於御書院宗久宗易宗及三人に千鳥の御香爐乍袋拜見候云々。 (津田宗及茶湯日記)
天正二年三月廿四日畫 於京相國寺上樣(信長)御會
宗易 宗久 道叱 道設 宗納 宗二
御床 菓子の繪 松本茄子方盆にすゑて(中略)上様御手前にて御茶被下候、後高麗茶碗にて友閑老うすく點られ、各玉はり候、後御書院にて千鳥の香爐初めて拝見云々。
松本茄子 高さ:二寸一分胴二寸三分餘、口さし渡し九分餘底九分半。袋純子、緒棧黄(茶入圖あり)。 (今井宗久日記扱萃)
天正十一年七月十一日晝 俄ノ也
紹鷗茄子、松本茄子、出申候、即京極茄子と御並べ申候て、御見せなされ候、何も盆に、松本茄子、筑州(豊臣秀吉)へ上り申候てより、今日初而御開也。
松本茄子兩三度目也、比言語に絶ゆる也、土前より見おとし申候、赤目の内にかわき心あり、土は細かにもなし、薬黒目也、帶殊の外さがり申候、一段さがり候、薬も前に見申たるより藥うすく覺候、一段藥うすく見え候、口のつくりなど相當なり、つよくもなし、口は一段狹く候、内へも藥かゝり候、糸切脇の方へより候、是又前より見落候、惣別此藥も土も道是(平野)持候木邊かたつきが似申候か、壺前より大がたに見え申候、盆付一段見事也、薬のけくゝみやう、言語道斷也。 (津田宗久茶湯日記)
天正十一癸未年九月十六日 秀吉様御興行
人數の事 宮内卿法印 宗易 荒木道薰 もすや宗安 宗及 五人也
見物の衆 池田勝入 藥師德雲
四疉半御飾 御床に 文琳 四方盆 宗及。初花御肩衝 方盆に 御物香爐 香合長盆に 宗及。香爐 方盆に 宗易。御掛物玉碉暮鐘の御繪、御物。後に松本茄子、筑州成御持御出云々。
 (津田宗及茶湯日記)
天正十一年十一月十一日朝 於京都宗通座敷
参列の衆 石川日向 休庵 兩人に御茶被下候、道薰宗及罷出候
御繪朝山。 松本茄子、かんとう袋、四方盆に。爐あられ釜小くさりに、芋頭水指、たこつぼ水下、大覺寺天目數の臺。 (津田宗及茶湯日記)
天正十五年正月三日大阪御城にて大茶湯の事
中臺子蓋置緣桶、井戸茶碗、二つ重ねて、是金の道具也宗無手前、炭斗瓢箪筋みな金。
松本茄子。内赤の盆に(中略)少し細高にして、上藥似たり(茄子)よりは黒めなり、口の比は同じ。
 (宗湛日記)

傳來
付藻茄子
元足利義滿所持にして、内野戰に赴く時、此茶入を鎧の裡に納れて携へたりとなり、後足利義政之を山名政豊に賜ふ、其後戰亂相継ぎて、其所在を失ひしが、珠光之を見出し、九十九貫に求めたるより、伊勢物語の歌に因みて、つくも又はつくもかみの茶入といへり。其後三好宗三に傳はり、更に越前朝倉太郎左衛門、五百貫に求め、又同國府中小袖屋某千貫に求めしが、戰亂の際、萬一を慮りて、之を京の屋某に預けおきしに、天文五年法華宗の亂に焼失せたりとて出さゞりしを、永祿元年春松永彈正久秀計略を以て之を取出し、爾後廿年間之を所持し、當時相國寺の惟高和尙が作りたる記文は總見記若くは太閤記に載せられて、普く人の知る所なりして弘治永祿の間、久秀の茶會に此茶入を使用せること、前記諸茶書に見永祿十一年十月信長上洛の途芥川の陣に留りし時、久秀此茶入信長に獻じ、元龜天正の頃、信長其茶會に此茶入を使用せしが、信長薨後、秀吉の有となり、元和元年大阪落城の節、賓庫と共に焚焼せり、偶本多上野(上野介正純)其焼跡に就て之を探索すべき事を家康に勘め、家康即ち藤重藤元同藤巖父子に此事を命せしに、藤重父子は、新田肩衝以下四筒の名物茶入を焼跡より探出せしにぞ、家康大に悦びて再探を命じ又々付藻松本兩茄子、宗薫、針屋兩肩衝を獲ければ、家康乃ち其功を賞し、付藻茄子を藤元に、松本茄子を藤巖に賜へり、爾來藤重は徳川時代を通じて之を保有せしが、明治九年頃刀剣鑑定家今村長賀の仲介にて、岩崎彌之助男に譲渡せしとなり。
岩崎彌之助男が付藻松本茄子を買求められたる時の情況を、後年瓜生震(越前の人にして岩崎家に仕へ茶事を嗜みて號を百里と云ふ)氏が物語られたる事あれば、左に其大略を揚げん。
明治九年の暮、敷へ樋になった時であった、今村長賀翁が付藻松本兩茄子茶入を駿河臺の岩崎邸に持参して此茶入を貴下に買って頂きたいと云ふ人があるが如何で御座ると云ふ其代償を問へば四百圓より一文も負らぬといふ、其頃岩崎男は三菱社で月給四百圓取って居たが、今しも其月給を受取って歳暮の小遣にしようと思って居る處なれば、甚だ當感して、之を買はんか否、斷らんかと、暫時躊躇して居たが、頑て出入の道具商道元事小川元臓を招きて彼の意見を尋ねしに、是れぞ正しく大名物茄子茶入で、金銭に替へ難き名品なれば、價を論せず御買上げあって然るべしと云ふ。是に於て男も終に決心して、兄彌太郎君を訪ひ事由を告げて四百圓借用を申込まれた處が、金は用立て申さんが返金する迄品は此方に預るべしと言はるゝにぞ、後年日本一の富豪と言はれた彌之助男も、已むを得す茶入を抵當にして四百金を借り受け、首尾能く名物を手に入れた次第であるが、年末の小遣を棒にふつて茶入を買入れられた男の物數寄は大に敬服せざるを得ぬ云々。
右物語に據れば、雨茄子は彌之助男家に傳はるべき筈なるに、今本家久彌(彌太郎家相續者)男の所藏たるを見れば、茶入は其儘本家に留まりし者と見えたり。
松本茄子
此茄子茶入は、恐らくらくは珠光の門人松本珠報の所持せしものならん。信長の有に歸してより、元龜二年天正二年の茶會に使用せられたること、津田宗及又は今井宗久の 湯日記に見ゆ信長薨後秀吉の所持となり。
天正十一年より同十五年迄屢々使用せられたること、前揭諸茶書に載する所の如し。大阪落城後、藤重藤元父子家康の命を奉じて城内焼跡より他の茶入と共に之を探得したる功を以て、此茶入は子の藤麗に賜はり、爾來藤重家の寶物たりしが、明治九年岩崎家に納りたること、前記付藻茄子の條に説けるが如し。

實見記
(付藻茄子)
大正十年二月二日、東京市本郷區湯島切通町岩崎久彌男邸に於て實見す。
口作丸く括り返し淺く、甑割合に高く下張り肩幅狭く腰に於て張り、茄子茶入としては總體黑すみたる栗色地にムラむらと柿色の模様現はれ、置形ナダレ盆附際に至りて止まる、松本茄子と共に、大阪落城後藤重父子が第二回目に灰燼中より拾ひ上げ漆を以て接ぎ合せたる者なれば原土を存する處極めて少き者の如し。底廻り朱泥色の土は在来儘にて、絲切細かに、中にヒッツキ若くは平面ありて、其一部を遮断せり、内部甑廻り釉掛り、以下轆轤荒く繞り、底中央に至りてキッカリと渦状を成す、勿論原形は過半消滅したれども、藤重父子の丹精にて、漆を以て景色を原作と見紛ふばかりに作り上げたる其技巧は此茶入に新に名物たるべき生命を奥へたる者と謂ふべし。即ち歷史的器物にして、元和元年藤重自筆の記録は、此茄子及び他の大阪名物茶入の來歴を審かにして、最も歴史的興味に富みたる者なり。

(松本茄子)
大正十年二月二日、東京市本鄉區湯島切通町岩崎久彌男邸に於て實見す。
口作締り丸縁にて、枯り返し稍深く、肩幅狭く稍衝きて、夫れより次第に裾まで膨らみ、恰好よき茄子形なり。總體漆ひにて原物の何程残り居るかを見分け難き程なり、柿金氣地に黒釉にて模様現はれ、置形胴中より叢雲の如き黒釉靉靆きて、裾土際までなだれ掛り、此土際に於て黒釉の縁を取りたる柿色釉ヌケあり、其他全體に亙りて黒釉景色あれども、多くは漆繕ひにて、後にて摸作したる者と見えたり、裾以下朱泥色土にて、指頭形数々あり、絲切細かく、中にヒッツキ又は平面の處あり、起點に於て少しく喰違ひあり、裾以下土の分は漆繕ひに非ずして、大方原土を存せり、又土際に於て青味を帯びたる釉の縁を取りたるが如く残るは、蓋し原物に於ては青瑠璃色の現はれ居りし者なるべし。内部口縁釉掛り、以下轆轤目荒く縒り、底廻り段を成して中央稍窪めるは、他の茄子茶入に於て多く見受けざる所なり。此茶入は大阪落城後藤重藤麗父子が家康の命を奉じて、第二回目に拾ひ出したる者なれば、第一回發見の新田、玉垣等に比して、破損の程度一層甚しく、七八分通りは漆繕ひにて、其景色は當時目撃者の記憶に依りて摸作したる者なるべし。

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