石黒宗麿 いしぐろむねまろ

Picture of 鶴田 純久の章 お話
鶴田 純久の章 お話

1893年(明治二六)今の富山県新湊市久々湊の藩医の家に生まれました。
富山中学中退。
金沢野砲兵第九連隊除隊後、同市立町に戻って楽焼を始めたのが陶芸のはじめでありました。
1919年(大正八)東京渋谷に移り、石炭窯などを自宅に築いて関東大震災まで焼いたがものになりませんでした。
震災後埼玉県比企郡小川町に住み、ここに石炭窯を築いて約二年間作陶したがこれも失敗に終わり、1925年(同一四)12月から金沢市法島町に移住し、隣家の登窯でもっぱら伊賀風のものを焼いたがこれも成功しませんでした。
昭和二 1927年4月京都市東山区今熊野南日吉町の蛇が谷に移り改めてやきものを本格的に習い始めました。
この頃小山冨士夫と知り合いました。
1934年(同九)佐賀県唐津の中里太郎右衛門の窯に一ぶ月間滞在して唐津焼を製作しました。
また大原総一郎の知遇を得るに至りました。
1935年(同一〇)京都八瀬(左京区)に窯を築いてこれを終生の地と定めました。
中国定窯風の柿釉、北宋風の均窯、南宋風の天目釉を研究し、またペルシア風の陶器も焼いました。
油滴天目・木の葉天目を得意とし、1955年(同三〇)重要無形文化財保持者となりました。
漢学の教養もあり、能書家でもありました。
1968年(同四三)没、七十五歳。

前に戻る
Facebook
Twitter
Email