陶工。
1807年(文化四)尾張国春日井郡大森村(愛知県名古屋市守山区大森町)に生まれ、壕仙堂治兵衛に入門し名工といわれました。
嘉永(1848-54)初年に彦根藩の湖東焼に従事したが間もなく帰国、1855年(安政二)に井伊直弼が湖東焼振興のために各地から良工を集めた際には真っ先に招かれ、その優秀な技術か認められて翌年12月に三人扶持を給わり職人頭に任命され、さらにその翌年5月には二人扶持増加したうえ苗字を許されて寺尾の姓を名乗りました。
市四郎は蹴轆轤を用いた大器物の製作が巧みで、また瀬戸時代には四畳半の茶室や六尺(一・八メートル)の燈籠などもつくったと伝えられています。
湖東焼の作品もまた優秀で絵付は常に一流絵師か行ったといわれています。
子に男子がなかったので陶工伝七(幹山)を一女の婿養子に迎えました。
1862年(文久二)閏8月湖東焼の廃窯で職を解かれ、伝七と共に京都に移ったが訳があって離縁し、尾張に帰って愛知郡川名村(名古屋市昭和区川名町)に窯を築き磁器を焼成して門弟を養成しました。
世間には川名の市四郎として知られていました。
その作品には銅板画を印刷したものがあり、川名焼・五郎焼・市四郎焼ともいいます。
1878年(明治一一)6月10日没、七十七歳。
(『湖東焼之研究』)※ごろうやき