大正・昭和の実業家。
1858年(安政五)福岡藩士二百石の神屋宅之丞の四男に生まれ、1870年(明治三)名門の福岡県権大参事団尚静の養嗣子となりました。
翌年9月には黒田家より海外留学生に選抜されて黒田長知に従ってアメリカに留学しました。
時に十四歳。
ボストン大学の鉱山学科七年の修業を終えて1878年(同一一)二十一歳で帰国。
教員、東大教授、官界を経て三井三池炭鉱事務長となり、益田考に着目されて1914年(大正三)益田退隠のあとを受けて三井合名理事長となりました。
時に五十七歳。
1917年(大正六)には日本工業倶楽部の設立と共にその理事長となりました。
また1922年(同一一)には日本経済連盟会設立に参与し、1928年(昭和三)にはその会長となりました。
ここに名実ともに日本財界の第一人物の地位を占めたわけであります。
しかし時あたかも金融恐慌による大不況に陥り、政財界に対する激しい批判が高まる中、浜口雄幸・井上準之助に次いで、1932年(同七)3月5日、彼もついに暗殺団の犠牲となりました。
七十四歳。
団はまたフェノロサとも交わり、美術への関心も深かりました。
茶道をはじめ多趣味で、古美術名器を蒐集していました。
(『近代数寄者太平記』)タンチ朝鮮語で蜜などを入れる一種の壺のこと。
叡の宇を当てます。
磁器のものが多いようです。
(『朝鮮陶磁名考』)