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鶴田 純久の章 お話

わが国曹洞宗の祖、越前国(福井県)永平寺の開山。
希玄と号しました。
1200年(正治二)生まれ。
内大臣久我通親の子。
十三歳の時比叡山に登り出家、十五歳の時建仁寺の栄西禅師を訪ね、十八歳で同寺の明全の指導を得ました。
1223年(貞応二)二十四歳の時入宋し、浙江省天童山の長翁如浄の感化を受けて1227年(安貞元)二十八歳で帰国。
三十七歳で京都深草に興聖寺を開き、1243年(寛元元)四十四歳の時越前国志比庄(吉田郡)に下り永平寺を開創。
1253年(建長五)病にかかり入洛、俗弟子覚念の邸において五十四歳の生涯を終えました。
著書に『普勧坐禅儀』『永平寺知事清規』のほか入部九十五巻の『正法眼蔵』があります。
『永平寺知事清規』は『百丈清規』に倣った厳密な修禅の規制・行儀を示したもので、喫茶行茶人座茶湯など茶礼に関することが散見されます。
なお瀬戸の陶祖といわれている加藤四郎左衛門景正は、道元の出である久我家との縁故により道元の渡宋に随行し、かの国の陶法を伝え、その帰岡後につくった小壺(茶入)を、一つは道元に一つは将軍家に献上しましたが、道元より久我家に伝わったものがすなわち大名物久我肩衝だという伝説があります。
また名物裂に「道元裂」または「道元緞子」といわれるものがあります。

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