東インド会社の陶磁貿易 ひがしいんどがいしゃのとうじぼうえき

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鶴田 純久の章 お話
東インド会社の陶磁貿易水鳥蓋物
東インド会社の陶磁貿易水鳥蓋物

十六世紀末からヨーロッパ諸国は相次いで貿易での利益を得るためにアジアへの進出を開始しました。
各国ではそれぞれ東インド会社が設立されてアジアとの貿易に当たったが、その時貿易品として重視されたのが中国あるいは日本の陶磁器でありました。
東インド会社によってヨーロッパヘもたらされた中国磁器の美しさは、ヨーロッパ人に強い感銘を与え、これはやがてヨーロッパでの磁器製造を促す原因となりました。
1600年に創立したイギリスでは、1700年広東に入港したマクレスフィ一ルド号が桶に詰められた中国磁器を購入したのが最初の中国磁器輸入であった。その後茶や絹と共に中国磁器は盛んに輸入され、1774年のロンドンには五十二人の専門商人がいた。彼らは必要なデザインを中国に送って景徳鎮で生産させたが、最後の工程である上絵付は広東郊外で行なわれた。フランスでは1664年に創立され、1698年十月アンフィトリート号が広東に入港した。この船には清朝の宮廷で活動したブーベなど七人のイエズス会士も乗り込んでいたことは有名である。同船は1700年八月フランスに戻ったが、積荷の中に一六七箱の磁器があった。アンフィトリート号の第二回航海は1701~3年にわたって行なわれ、一五〇万ルーブルに及ぶ中国磁器・漆器・絹織物・扇子などが輸入された。中国これらの工芸品はフランスの宮廷貴族間で広く歓迎され、フランスでの東洋趣味の流行を生ん檜垣だ。1723年には日本製品も輸入された。オランダは1602年に会社を設立し、同年ポルトガル船サンジャゴ号の積荷を奪ったが、この中に二十八包みの磁器皿、十四包みの小皿があった。まとまった量の中国磁器がヨーロッパへ入ったのはこれを最初とする。1604年には同じポルトガル船カテリーナ号を捕えてアムステルダムに送ったが、この中に十万個、約六〇トンの磁器があった。全部万暦期(1573~1619)の染付であったといわれる。その売立てには全ヨーロッパの商人が集まり、貴族達の間での中国磁器流行の端緒となった。これ以後1700年のイギリスの進出までオランダは中国陶磁貿易のトップを占めていた。
彩色した木器が見本として中国に送られ、このサンプルによって中国では大量に輸出用の器物を生産しました。
オランダは会社の根拠地をバタビヤに置き、日本との貿易も行なりましました。
1658年ベンガルに向けて日本品457個が長崎から送り出されました。
その後1682年までに19万個にのぼる日本品がアジア各地へ輸出され、そののちも33万個の日本品が輸出されました。
しかし大部分はアジア各地で消費されるもので、ヨーロッパへ送られるのはほぼ中国品に限られていました。
ドイツでは1684年貿易会社が設立されて、ペルシア、モスクワ経由の北方ルートの開拓が試みられたが失敗し、フレデリック大王もプロイセン・アジア会社を設立したが不調に終わっています。
1713年にはフランドルの人々によりオステンド会社が設立され、1715年三隻の船が中国へ送られて百パーセントの利益をあげました。
その背後にはオーストリアの皇帝がいました。
しかし会社はイギリス、フランス、オランダに圧迫されて1727年貿易は中止されました。
その失業者を集めて同年スウェーデンにアジア貿易会社が設立され、スウェーデン王フレデリックもこれを援助し十五年の免許を与えました。
その後免許は更新されて1813年まで続いました。
十八世紀前半にスウェーデンに輸入された磁器は毎年十万個にのぽり、後半には千百万個が輸入されました。
スウェーデンもまたデザインを送って注文生産を行なわせました。
デンマークでは1621年に王立アルトナ会社が設立されたが不成功に終わり、1634年に第二の会社、1728年に第三の会社が設立されました。
最初のデンマーク船の広東入港は1731年であります。
デンマークもまた多様なデザインを送って注文生産を行なわせました。
(Volker,T.『Porcelain and the Dutch East India Companies』Beurdeley,M.『Porcelain of the East India Company』Philips,J.G.『China Trade Porcelain』Morse,H.B.『The Chronicles of the East India Company』)

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