出雲国八束郡西川津村楽山(島根県松江市西川津楽山)の陶器。
別称御山焼・権兵衛焼。
その名義を論語の「仁者楽山」より「ぎょうざんやき」とする者かおるが現地では「らくざんやき」を通称しています。
創始は初代松江藩主松平直政の慶安(1648-52)頃といいます。
しかし楽山焼の称があるものは、第二代綱隆が1677年(延宝五)陶技指導のために長門国(山口県)毛利侯より萩焼陶工倉崎権兵衛を所望し従事させたのに起こります。
権兵衛は萩の粘土および釉をもたらし、萩焼に似テー層奇を帯びた抹茶碗・水壺・盃の類をつくり、世間ではこれを権兵衛焼といって珍賞しました。
特に伊羅保写しの名手でありました。
その伝系は元祖倉崎権兵衛重由。
二代加田半六・三代加田半六・四代加田半六・五代長岡住右衛門貞政・六代同貞正(空斎)・七代同空大・八代同庄之助・九代同空味と継続し、十代を経て今は空味の孫十一代空権が継いでいます。
二代加田半六はもとは権兵衛の弟子でありましたが、権兵衛の嗣子権斎が幼少で製陶を廃したため継いで二代となりました。
その子半六が三代、四代は平手半六と呼ばれのち暇を出されました。
この間しばらく御焼物師が断絶しましたので、1756年(宝暦六)松江横浜の土器師土屋善四郎芳方(布志名焼土屋家の祖)カー時楽山窯師となりました。
のち布志名窯の陶工長岡住右衛門が楽山焼再興のために松平不昧に抜擢され楽山焼五代目となりました。
もっぱら茶器を製造して称誉され、楽山焼中興の祖といわれました。
その開窯は1801年(享和元)1月であります。
六代を継いだ空斎は実は土屋善四郎芳方の孫で住右衛門の養嗣子であります。
出雲錦手の発達に貢献しました。
七代を経て八代住右衛門は1874年(明治七)家督を継いで楽山焼八代となり、その次の九代空味は近来の名工といわれました。
なオー説によれば初代加田半六(楽山二代)または二代長岡住右衛門空斎(楽山六代)が権兵衛を襲名して二代権兵衛を称したというが不詳。
(『陶器考』『本朝陶器孜証』『日本陶磁器史論』『松平不昧伝』『出雲陶窯』)※くらさきごんべえ※かだはんろく※ながおかすみえもん