竜門司焼 りゅうもんじやき

竜門司焼 りゅうもんじやき
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鶴田 純久の章 お話
竜門司焼 りゅうもんじやき
竜門司焼 りゅうもんじやき

鹿児島県姶良市加治木町にあります。
1620年(元和六)この地にあった島津義弘の加治木窯が廃止となったあと、1631年(寛永八)に至り家久の次男忠朗が加治木島津家の祖となり、この時鹿児島田之浦で製陶に従事していた朝鮮人芳珍の子小右衛門が招かれて加治木城下山元で開窯しました。
すなわちこれが山元焼であって竜門司焼の端緒となるべきものであります。
その子山元碗右衛門が1664年(寛文四)小山田高崎(加治木町小山田)の地に移窯しましたが、のちさら把今の茶碗屋付近に移りました。
碗右衛門の弟子に川原十右衛門種甫という者ものかおり、号を芳工といきました。
1768年(明和五)四十二歳の時鹿児島竪野窯に来て河野仙右衛門について十二年間陶法を修業し、大いに竜門司の製法を改革し、さらに1779年(安永八)子弥五郎を伴って肥前国(佐賀・長崎県)に行き磁法を修めて帰り初めて磁器を製造しました。
1793年(寛政五)また竪野の陶工星山仲兵衛金臣と共に肥後国(熊本県)・筑前国(福岡県)・長門国(山口県)・備前国(岡山県)・京都・尾張国(愛知県)・伊勢国(三重県)の製陶地を巡歴し、京都の錦光山宗兵衛より京焼楽焼の法を受け、翌年正月に帰国後ついに鮫肌焼の製品を案出しました。
その子弥五郎種春は器遊斎と号してまた名工でありました。
このように竜門司は川原父子の努力により次第に隆盛となり、その子孫が相継いで川原焼の名で明治に至りましたが、廃藩および西南の役の影響を受け資金欠乏のため転業者が続出し、一時はほとんど廃窯の危機に瀕するに至りました。
1882年(明治一五)川原源助はこの状態を嘆き、来県した錦光山宗兵衛に会いますと、二人で計画しもっぱら輸出品の製造に努めたため、わずかな時間で旧勢を挽回しました。
しかし時潮の変遷には抵抗し難く、陶家の多くは農業を主としかたわら製陶するという有様で、到底昔日のような隆盛は期待できず、次第に衰微に傾いました。
製品は日用雑器を主とし、俗にいう黒薩摩つまり黒物、黒釉・赤褐釉・三彩釉などであります。
この窯における特徴をあげれば鮫肌焼・玉流釉などであります。
鮫肌焼は釉薬と素地の膨張収縮の性質の不一致より生じる剥脱を逆応用したものであって、釉があたかも鮫の肌のようにこまかい粒状の粗面を呈するものであります。
玉流釉は黒褐釉を濃厚に掛けその上に青釉を流し掛けたものであって、水注・花入・置物などに多いようです。
また小野元立坊が案出した観音寺焼も種々に応用工夫され、古帖佐写しも盛んに行われました。
なお器遊斎の頃には人物像・置物などもつくられました。
なお竜門司窯は当初山元焼・碗右衛門焼とも称せられましたが、今日では加治木町小山田の地名により小山田焼と通称されます。
その竜門司焼の名は同地の北にある竜門の滝より出たものであります。
(『薩摩焼総鑑』)

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