京都生まれ。工芸家、書家、画家、出版者、作庭師、能面打ち、様々な顔を持つマルチ・アーティスト。優れたデザイン・センスを持ち、すべてのジャンルに名品を残した日本のダ・ビンチ。特に書の世界では近衛信尹、松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」の1人に数えられ、光悦流の祖となりました。
生家の本阿弥家は京の上層町衆。足利尊氏の時代から刀剣を鑑定してきた名家だ(主なパトロンは加賀の前田利家)。刀剣は鞘(さや)や鍔(つば)など刀身以外の製作工程に、木工、金工、漆工、皮細工、蒔絵、染織、螺鈿(貝細工)など、様々な工芸技術が注ぎ込まれており、光悦は幼い時から家業を通して、あらゆる工芸に対する高い見識眼を育(はぐく)んでいました。
その後、父が分家となり家業から自由になった光悦は、身につけた工芸知識を元に、好きで勉強していた和歌や書の教養を反映した芸術作品を創造するようになりました。
光悦 こうえつ
桃山・江戸初期の芸術家。
1558年(永禄元)生まれ。
姓は本阿弥、通称次郎三郎、自得斎・徳友斎・大虚庵の別号があります。
室町幕府の刀剣奉行妙本阿弥八代光二の長男。
のち父と共に本阿弥別家を立て、京都本阿弥ヶ辻に住み刀剣の鑑定・磨礪・浄拭の家業に従事しました。
光悦は見識高邁で権威に媚びず、しかも身を持すること質素で将軍家光をして「光悦は天下の重宝」といわしめたほど一世に卓出した人物でありましたが、家業のほかに広く書画茶香花陶漆の諸芸に通じ、後世永く総合的大芸術家の名をほしいままにするに至りました。
1615年(元和元)家康から洛北鷹ヶ峰の地を賜わり、一族諸工匠を集めること五十五戸に及ぶいわゆる光悦の芸術村をつくりました。
茶は古田織部に学び小堀遠州・干宗旦とも親しみ、また道人(ノンコウ)を愛し楽家の法を得て陶器をつくり、光悦風なる独自の芸術を打ち出しました。
その作は織部の豪快と自己の王朝趣味を併せたもので、豪放・雄大・閥達・円満、いささかも匠気を帯びず、その傑作茶碗は光悦の五種・七種・十作などの名で今に秘宝視されています。
製作については自ら『本阿弥行状記』に「何事も上達せざれば其の奥義をさとらぬものと今更の様に思ひぬ、しかし其の道を得ぬ事はおかしきものにて陶器を作ることは予は惺々翁(松花堂)にまされり、しかれどもこれも家業体にするにもあらず、ただ鷹ヶ峰のよき土を見立て折々拵へ侍るばかりにて強て名を陶器にあぐる心つゆいささかもなし」と語り、また茶については「茶を好むとも珍器にかかはるべからず、道具はあるに任せ若しや手前余りある人は其身相応に道具を遣ふべしと紹鴎は教へ被申候」ともいっています。
なお光悦は書道においても有名で、多く宗達下絵との合作が伝えられ、弟子角倉素庵と協力して謡曲嵯峨本を刊行し、漆芸では金蒔絵に青貝・銀・鉛・錫などを用いて斬新な王朝趣味的作品を創出しました。
世に光琳派と呼ばれる装飾画法は実に光悦をもってその源流とするのであります。
光悦は家職の関係で禁裏・将軍・大名・公家の各方面と交渉をもったが、特に加賀前田藩からは二百石の知行を賜わり、たびたび金沢へ往復しています。
1637年(寛永一四)2月3日没、八十歳。
なお光悦の伝記資料としては養子光瑳と孫光甫らの書き留めた『本阿弥行状記』と、甥光益の子灰屋紹益の書いた『賑草』があります。
孫の光甫は空中斎と号し(1682、天和二年没)また作陶に名があります。
なお「光悦会」は光悦の遺徳と芸術を讃仰する財界人によって1915年(大正四)に結成され、以来毎年11月鷹ヶ峰光悦寺で茶会が催されています。