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鶴田 純久の章 お話
加藤四郎左衛門景正
加藤四郎左衛門景正

加藤四郎左衛門景正。
俗にいう尾張瀬戸の陶祖。
世に藤四郎というのは氏名の上下を略したのであります。
晩年剃髪して春慶と号した(または俊慶)。
伝記については二説があります。
一つは昔から瀬戸に伝えられている有名なもので、もう一つは1595年(文禄四)につくられた『別所吉兵衛一子相伝書』の所説であります。
前者によれば加藤四郎左衛門は名を景正といい、父は大和国(奈良県)に住したと伝える橘知貞の子藤原元安で、母は平道風の娘で1168年(仁安三)景正を山城国(京都府)の某所で生んです。
景正は幼少から土器をつくることを好み、常にその製器が中国のものに及ばないのを嘆き、中国への留学の志をもっていたが機会を得ず、成人後は大納言久我通親に仕えて五位を賜わり久我家の諸大夫となりましたが、1223年(貞応二)通親の子道元禅師が中国に行くのに随ってついに宋に渡りました。
時に禅師二十四歳、藤四郎五十六歳でありました。
そして中国に滞在すること六年、1228年(安貞二)六十一歳で帰朝しました。
初め船は肥後国川尻(熊本市川尻町)に到着しましたが、そこで持ち帰った土により小壺をつくり、一つを時の執権北条氏に呈し、一つを道元禅師に贈ったといいます。
そして備前国(岡山県)松等尾の父の誦所に行ったり、あるいは山城国深草(京都市)に住んでいた母のもとで孝養を尽くしたりしましたが、程なく母が没してのちは近畿諸山および近傍諸州に土を求め製陶を試みたがどれも意に適さず、のち尾張国(愛知県)は昔から陶器を制作するところと聞き、同国山田郡瀬戸村(瀬戸市)に至り祖母懐の土を見ますと、その質がほとんど中国と同じであったのでついに同村字中島に住んです。
その宅跡は今も存在しています。
その北に禅長庵の旧地があります。
藤四郎が晩年家をその子藤四郎に譲って禅味を味わった旧跡であります。
1249年(建長元)3月19日没、八十二歳。
もう一説では藤四郎は源頼朝の臣加藤次景廉の家人で、姓は千野、名は四郎左衛門といいます。
生来土細工に巧みで勤仕の間はいつもこれを楽しみとしていました。
景廉に一子かあり辰若丸といいましたが、小鳥を愛して学問の間もなお側においている程でありました。
ある時四郎左衛門に小鳥の形をした水滴をつくれと命じましたので、雀の水滴をつくって焼き上げると大いに気にいり賞賛を得たといいます。
また当時酔後に抹茶を飲むことが流行し、盛んに茶宴を開くという程ではないが少なからず茶を用いる者が多かったです。
しかし茶は栽培する量も極めて少なく、そこで将軍家より諸大名に茶を少しずつ賜うことがありました。
時に1206年(建永元)将軍実朝の時に諸大名に茶を賜わることがあり、諸臣がその茶を入れるものを議論したところ陶器と決定し、それを誰につくらせようかという時、実朝はかねて四郎左衛門の土細工に堪能なことを聞いていて四郎左衛門につくらせるべきであるといきました。
彼は大いに喜び初め尾張国瓶子窯でこれをつくりました。
高さ九センチの壺を最大とし小は四・五センチに至りました。
これは大名の資格に従い茶に多少の差があるためであります。
この時芋の形に焼出したのが今の孔の子だといいます。
この恩賞として近江国(滋賀県)の荘で五十町(五ヘクタ一ル)の地を賜わりました。
また主人景廉も大いに喜んで自分の姓を与えて加藤四郎左衛門と名乗らせました。
これを省略して世人は藤四郎と呼びます。
これより藤四郎は製陶をもっぱらとし種々の陶器を製しましたが、釉の油剤が明瞭でなかったので将軍に陶器伝習のため中国へ渡ることを懇請し、ついに1212年(建暦二)3月中国へ出帆しました。
中国で色々の土を見たところ、建州の土が最もよく他の土は適当でありませんでした。
そして製陶家のもとに住んで釉の調合を学び、椿とつつじの灰を求めて焼成を試みると熔解が意にかないましたので、諸々の形の茶入をつくり帰朝後北条泰時を介して将軍へ献じたといいます。
現今茶人の珍重する唐物茶入はこれであります。
元来中国には茶入はなくわ国にもありませんでしたが、藤四郎がこれをつくりました。
1234年(文暦元)正月17日没、五十五歳。
その子藤五郎が遺跡を相続。
このように二説には相違があります。
まず時代が違っています。
一つは1168年の出生、もう一つは1184(元暦元)の出生というのですから、後者の遅れること十六年となります。
また1866年(慶応二)松園阿部伯孝が撰した陶祖碑の銘には藤四郎帰朝の時二十六とあり、それから推算すると第二説よりさらに二十年後の1203年(建仁三)の出生となります。
中国出発の年も第一説は五十六歳、第二説は1212年の出帆であるから二十九歳、陶祖碑の説は二十一歳であります。
没年は第一説では1249年八十二歳ですから、第二説の1234年より遅れること十六年であります。
両説にはこのように相違がありますが、要するに鎌倉の初め仁安(1166-9)より建長(1249-56)までの人と考えればよいです。
また中国に渡った目的に関しても、口瓦手の美観が中国の小壺に及ばないのでその方法を学び伝えるためといい、あるいは当時中国においてはすでに染付があったので藤四郎はこれを学び伝えようと赴きましたが、その窯は勅令で開く窯で民間常用の器をつくることはできず、ましてや外国人の窮うことなど許されませんでしたので、やむを得ず小壺すなわち唐物茶入の造法を学んで帰ったのだといいます。
なおその作品について茶家者流は、渡宋以前の作を口几手・厚手・掘出し手、帰朝後唐の土と釉とで焼いたものを唐物(藤四郎唐物)、和土和釉で焼いたものを古瀬戸(うち大形を大瀬戸、小形を小瀬戸)、剃髪後のものを春慶と区別します。
以上景正の事跡の概略でありますが、景正の出生は当時の名流でもなく、その成業後の勢力もまだそう大きいものではないようです。
彼の盛名は後代茶人の推賞と子孫の繁栄とによるのであります。
また自作の遺品にしても経歴の判明しているものはまれで、ほとんどは推定に基づいています。
諸説が横行するのもまたやむを得ますまい。
1824年(文政七)2月深川神社境内に祀られ陶彦の神と称されました。
1886年(明治一九)10月正五位を追贈。
その子孫は尾張・美濃両国の製陶地に数十家に分かれ広がりましたが、そのうち瀬戸における正系を記しますと、景正の一子藤五郎正基は多病のため家を継がず、藤三郎景慶(前妻の出)が瀬戸に分家して母方の氏朝日を称して朝日順慶と名乗ったがのち絶家、その弟基通(藤次郎また藤九郎・藤五郎、のち藤四郎と改名)が文永年間(1264-75)本家を相続して二世となりました。
飽津(赤津)に住み、作品は黄瀬戸伯庵手の類が多いようです。
世にこれを真中古と呼んで景正の古瀬戸と区別します。
三世景国(藤三郎また兎四郎・藤次郎、のち藤四郎と改名)は永仁年間(1293-9)本家を相続して飽津に住んです。
作は曾祖父景正の遺風に倣います。
世にこれを中古といい、また金華山と号します。
四世政蓮(藤九郎のち藤四郎、景国の息子)は嘉暦・建武年間(1326-36)に本家を相続、世に破風窯といいます。
屋根の破風形に地胎を残して釉を施すからであります。
五世信政、六世政光、七世基実、八世基房、九世兼実、十世基治、十一世政長、十二世基時、十三世景春、十四世景茂、十五世春宗、十六世景政、十七世春久、十八世春琳、十九世春清、二十世春正、二十一世春定、二十二世春福、二十三世春英、二十四世某、二十五世天陸、二十六世春楽、二十七世孫次郎、二十八世竹太郎。
なお『をはりの花』『新編瀬戸窯系統譜』には、瀬戸以外に赤津窯・品野窯および美濃国の大平窯・猿爪窯・久尻窯・大萱窯・大富窯・笠原窯・高田窯などの傍系の系譜が載っています。
(『別匙吉兵衛一子相伝書』『茶器弁玉集』『瀬戸陶器濫脳』『春慶由来書』『張州府志』『古今名物類聚』『尾張名所図会』『陶器考付録』『瀬戸陶磁器沿革書』『瀬戸陶業史』『日本陶磁器史論』『大日本窯業協会雑誌』八『日本近世窯業史』『をはりの花』『新編瀬戸窯系統譜』)

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