鶴田 純久
鶴田 純久

高さ:8.5~9.2cm
口径:13.8~14.2cm
高台外径:5.7cm
同高さ:0.8~1.0cm

 花摺は真熊川でも最も有名な茶碗で、草間和楽も「咸鏡道の手なり」と賞美しており、広く熊川を代表する名碗として、古来茶人の間に推賞されています。真熊川は、いわば熊川の本流ともいうべきもので、端正な熊川形りの姿、温雅な作ふうを特色とし、落ち着いた品格をたたえて、熊川の中でも最も熊川らしい本領の発揮された茶碗です。熊川は、井戸と並んで古くから茶人になじまれ、熊川形りは、和え物でも古唐津に、古萩に、あるいは初期素焼きの高麗写しに、大きな影響を与えています。ことに真熊上川の手は、その深めでふところ広く、口当たりの上でも茶を飲むのによいこともあって、井戸にはまた見られぬ温雅な品格のゆえに、いたく賞玩されています。
 「こもかへ」(今はこもがえ、あるいはこもがいと呼んでいる)の名は、釜山に近い熊川の和訓から出たものです。熊川は室町時代以来、彼我交易の港として栄えた所で、応永ごろから天文十三年まで(その間一時中絶しましたが)、蕎浦倭館も置かれて、日本人も多数居留し、わが国には格別なじみの深い土地でした。その地名も日本人の間では、訓読の。「ごもかへ」。で呼ばれていたが(『秀吉文書』)、この熊川港から船に積まれた事情で、茶人はこの手を「こもかへ」と呼んだのです。
 熊川の産地については、素地、釉薬、作ふうの上から、晋州付近(慶尚南道)の窯とみられています。晋州から洛東江を下って、熊川港に運ばれたものでしょう。
 熊川港と日本人との密接な因縁から考えて、すでに室町時代、茶の湯の流行につれて、熊川も井戸や三島と同様、早くから渡っていたのではないかと思われます。井戸や三島と同じく、かの地本来の生まれのものとして、その作意の染まないすなおな雅味は、大らかで純朴な当時の茶人に喜ばれ、親しまれたでしょう。
 花摺の銘は、濃いびわ色の釉膚に、雨漏りの紫じみがあるのにちなんで、小堀備中守宗慶が、『新千載和歌集』権大納言実俊卿の「露わくる袖にそうつるむらさきの色こき野辺の萩か花すり」という一首によってつけたもので、熊川において景とされる雨漏りの、ことにすぐれた本碗として、まことに適切な雅銘と称すべく、熊川といえば花摺というほどに、その名は茶人の間に膾炙されています。
 やや端反りの端正な熊川形りながら、大ぶりで堂々たる貫禄があり、さすがに熊川の王座を占めるにふさわしい実を備えています。姿に応じて素地はやや厚めで、細臓な白土ながら、伝世によって色づいています。高台は土見、かつ竹の節で、内は熊川特有の丸削りにな一つています。釉だちは、細かい貫入のある柔らかいたちで、これは晋州の特色とされています。見込み茶だまりには丸い鏡落ちがあり、これは熊川では、形とともに大ぎな約束になっています。胴に小石を昏んで、また一景をなしています。口縁から胴にかけて大貫入があり、ほか三に小ひび四つ、口縁五ヵ所に漆繕いがあります。
 付属物は、
内箱 曲げ物 黒塗り 蓋甲 桃画 胴 葡萄栗鼠画
外箱 桐白木 書き付け 小堀備中守宗慶
もと田杜隠岐守所持二説に加賀前田家伝来とも)、のちに鴻池家伝来によって世に知られました。昭和三十八年秋の光悦会には、京都席に飾られました。
(満岡忠成)

花摺 はなずり

花摺
花摺

名物。朝鮮茶碗、真熊川。
茶碗の枇杷色の中に紫色を含んだ黒鼠色がむら雲のようにしみ模様をなしていますので、『新千載集』権大納言実俊の「露かかる袖にそうつるむらさきの色こき野辺の萩か花より」の歌意から銘としました。
大形で景色の変化に富んだ茶碗であります。
もと田村隠岐守所持、一説に紀州徳川家伝来ともいわれます。
のち鴻池家に人りました。
(『古今名物類聚』『大正名器鑑』)

真熊川茶碗。この茶碗は熊川茶碗の中でも極上手とされ、世に咸鏡道手と呼ばれます。口縁は端反りで、竹の節高台をもち、見込の鏡は大きいです。全体にかかった枇杷色の釉の中に紫色がかったしみがむらむらと現れて、興をそえます。『新千載集』の「露分くる袖にぞ移るむらさきの色こき野辺の萩が花ずり」の歌意から命銘されました。
大形で、景色の変化に富み、形・土味・釉色ともに堂々たる貫禄の名碗です。《付属物》箱-桐白木、書付小堀宗慶筆、蓋裏書付同筆《伝来》田村隠岐守-鴻池家《寸法》高さ8.3~9.0 口径13.7~14.2 高台径5.4 同高さ1.0重さ463

名物
付属物 曲物 黒塗 箱 桐白木 書付 小堀備中守宗慶筆 同蓋裏 書付同筆
伝来 田村隠岐守―鴻池家
所載 和漢名器博覧 鴻池蔵帳 諸家名器集 草間和楽著 茶器名物図彙 大正名器鑑
寸法
高さ:8.3~9.0cm 口径:13.7~14.2cm 高台径:5.4cm 同高さ:1.0cm 重さ:463g

花摺 はなずり

 熊川の茶碗というのは、熊川の浦から渡来した茶碗ということで、熊川で出来たものというのではありません。それらの産地は広く朝鮮の南北にわたり、かなり長期間焼かれていたとみられます。その中でこの真熊川・花摺の茶碗は、最も早い時期に北鮮の成鏡道で造られたものと伝えられ、世に成鏡道手とよばれています。いわば熊川茶碗の始祖にあたり、形・土味・釉色ともに堂々たる貫禄の名碗と称してさしつかえません。
 大正名器鑑には「大切洪武年代に焼く、右の事万宝不林人という唐本に有之由」と、成鏡道手のことにつき記していますが、この出典が確かなら、年代の決め手になるわけです。ところでこの茶碗は、ゆったりした姿に枇杷色の釉がかかり、紫色がかった漆みがむらむらと現れて興をそえています。釉面の貫入から。漆みこんだ茶渋などが、長い年月の間に変化したものです。それを古歌にある萩の花摺りと見て、ごの銘が生れたのです。

露わくる袖にそうつる
むらさきの
色こき野辺の
丁萩のはなすり

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