加藤土師萌 かとうはじめ

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鶴田 純久の章 お話

1900年(明治三三)瀬戸市に生まれた。
本名一。
少年の頃から画家を志しましたが、日野厚について図案を学ぶに至って図案家として出発。
二十歳頃から作陶に進み、商工展に出品してたびたび入賞しました。
1926年(大正一五)10月岐阜県陶磁器試験場技手として迎えられ、翌年10月第八回帝展に第四部美術工芸部が設置されてから、引き続いて文展・日展に毎回出品しました。
1928年(昭和三)地方商工省技師となり、1930年(同五)中国・朝鮮の陶業を視察、1938年(同一三)台湾総督府の招聘によって同地の陶業を指導しました。
翌年パリ万国博覧会美術博に出品しグランプリを受賞。
1940年(同一五)官を退き横浜市日吉(港北区)に築窯して独立、翌年帝展無鑑査となりました。
1944年文部科学省工芸美術講習所講師となり翌年日展審査員となり以後三回重任。
1950年(同二五)秩父宮の御殿場別邸に三峯窯を創設、同家の作陶指導に当たりました。
1951年第一回神奈川県文化賞受賞、翌年第六回中日文化賞受賞、同年また無形文化財に選定されました。
1955年(同三〇)東京芸術大学教授となり、翌年日ソ工芸展委員となりました。
1957年(同三二)アメリカ国務省の招聘に応じて渡米、次いでヨ一ロッパ各地を回りました。
1958年日展を脱退して日本伝統工芸展に出品し、毎年鑑査員となりました。
1959年作品三点がボストン美術館の収蔵となり、同年ブラッセル万国博覧会でグランプリを受賞。
1961年(同三六)には色絵磁器の重要無形文化財保持者となり、また宮内庁吹上御所の壁面陶板をつくりました。
1962年から三年間にわたり正倉院御物の調査を命ぜられました。
1964年(同三九)外務省から派遣されヨ一ロッパ各国およびエジプト一トルコ一フィリピン・沖縄などを巡歴。
1965年中華人民共和国の招きを受けて北京・西安・鄭州・南京・上海・杭州・南昌・景徳鎮・広州などを巡歴。
また同年日吉窯創開二十五周年記念の加藤土師萌秀作展を東京日本橋の三越本店において盛大に行なりましました。
1968年(同四三)新皇居第一儀礼室の大飾壺の製作中に倒れました。
六十八歳。
彼は日本陶磁協会理事として活躍し、同じく理事の加藤唐九郎と協力して陶磁協会賞の制を設けて後進を激励しました。
また日本伝統工芸展の内部改革にも断乎闘いました。

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