一名:江戸高麗・江戸ととや
中興名物
高さ7.0~7.3cm
口径:12.2~12.5cm
高台外径:5.8~6.0cm
同高さ:0.5cm
桐白木の内箱蓋表に、小堀遠州の筆で、右肩に「東」、左肩に「高麗」と墨書きされていますが、命銘のいわれはつまびらかにしません。また、黒塗りの外箱蓋表には、金粉字形で「東高麗江戸高麗トモ江戸ととやトモ」と、しるされていますが、この外箱は後世住友家に伝わってからの箱と思われ、つまるところ遠州時代にはこの茶碗をととやとしていなかったことは、まずまちがいありません。事実、『遠州御蔵元帳』書写本にも「東高麗」の名で見え、下ってこの茶碗を小堀家より譲り受けた松平主殿頭(肥前島原藩主)が、享保十一年8月21日催した茶会の記録にも、同様「東高麗」の名しか見えません。思うに、遠州時代から他に「江戸ととや」といわれている茶碗があるところ、この茶碗を「江戸ととや」としたのは、何かの誤りではないかと推察されます。上茶碗の形姿も、明らかに一般のととやとは異なっていますが、釉調にととやと似通ったところがあり、ことに「利休ととや」と類しています。
口径に比して高台はかなり大ぶりであり、しかも低く削り出されていますが、高台ぎわがやや深く切り込まれているため、低いながらを竹の節状をなしています。高台内の削り込みは「利休ととや」どよく似て、中央に穏やかな兜巾が現われています。見込みには茶だまりはなく、ほとんど平らで、側面にろぐろが穏やかにめぐっています。茶碗の形状は他に類のないもので、高麗茶碗としては、いささか変わりものといえます。あるいは遠州がとり上げたのも、そうしたところにかえって見どころを求めたのかもしれません。
釉がかりは総体的に薄く、青みと赤みの片身替わり状に変化していますが、赤みはやや黄みをおびてほのかな趣があり、青みは鉛色をれびて伊羅保にかかっている釉と似ています。さして景の豊かな釉調ではありませんが、釉膚は柔らかく、なかなか味わい深いです。いわば一見平凡な作ぶりの中に、落ち着きのある深みを感じさせる茶碗といえましょう。土味はねっとりと細かく、口辺に金繕いがあります。高台畳つきにも、山割れが一ヵ所見受けられます。
小堀遠州の旧所持で、『蔵帳』にも所載されていますが、のち同家から肥前島原侯松平主殿頭に伝わり、長らく同家に伝来し、大正七年十二月八日、同家入札に際して、三万一千百円で住友家の蔵となりました。
(林屋晴三)
東高麗 あずまごうらい
江戸魚屋 えどととや
斗々屋茶碗。中興名物。斗々屋の三種のうち、いわゆる利休斗々屋の手に属し、このタイプは本歌利休斗々屋と、この東高麗の二例のみであります。
江戸にあって高名であったところから、東高麗、あるいは江戸斗々屋とも呼ばれ、江戸高麗ともいわれたようであります。
青色と渋茶色が片身替りとなり、高台は低いが竹の節であります。
高台周りも、高台も大きく、その形姿も単純ではありますが、茫洋とした姿が、屈折の多い高麗茶碗の中にあって、かえって面白くみられるのであるでしょう。《付属物》箱-桐白木、書付小堀遠州筆《伝来》小堀遠州-松平忠房-住友吉左衛門《寸法》高さ7.2 口径12.4~13.9 高台径6.0 同高さ0.6 重さ279
中興名物。朝鮮茶碗、魚屋。別名江戸高麗または江戸魚屋。江戸で名高い茶碗でありましたのでこの名称があります。青色と渋茶色の片身替りになっており、底は広い。作行はやや利休魚屋に類し一手変物であります。もと小堀遠州所持、のち島原藩主松平主殿頭に伝わり、1918年(大正七)同家売立の時に三万一千百円で住友家に入った。(『名物記』『大正名器鑑』)