桃山期の茶人、政商。
1551年(天文二〇)生まれ。
名は貞清、通称善四郎。
大徳寺古渓和尚に参じて剃髪し宗湛と号しました。
博多の豪商神谷家の六代目の主。
神谷家は古くから宇佐八幡宮(大分県)の管領で、三代寿貞は中国明に渡って製錬術を学び、石見銀山(島根県)を開いて豪富を築いました。
宗湛は政商として大友宗麟・織田信長・豊臣秀吉・小早川隆景・石田三成・黒田長政ら常に当代の主流に近づき、秀吉から最も愛顧を受け九州平定後の博多の町割り、朝鮮出兵のことにも関与しました。
宗湛の茶は島井宗室同様その政商保身との兼ね合いでもありましたが、利休の弟子として深くこの道を好み、その家には天下の名物博多文琳を伝え、宗及・利休・有楽・織部ら堺衆および有力茶人と親交を結んです。
1582年(天正一〇)三十二歳の時、宗室と共に信長の本能寺の茶会に参列し、あたかも光秀反乱の際「遠浦帰帆」の名幅を持ち出したといわれます。
1586年(同一四)11月18日上洛以後の秀吉の殊遇など多彩な記録のすべては『宗湛日記』として詳しく残っています。
晩年幕藩体制の確立と共に活躍の自由を失い、1624年(寛永元)には藩主黒田忠之から大家宝の博多文琳を黄金二千両・知行五百石に代えて召し上げられました。
1635年(寛永一二)10月28日没、八十五歳。
墓は福岡市妙楽寺にあります。
【宗湛日記】茶の湯三大会記の一つ。
または『神谷宗湛筆記』といいます。
別にその料理献立記録を抜粋したものに『神谷宗湛献立日記』があります。
『宗事を愛し自ら楽しみとして陶器をつくりました。
器ご湛日記』は三巻本。
天正から寛永年代に及ぶ宗湛の茶会記録。
記事は詳細克明で茶だけではなく広く歴史資料として極めて貴重なものとされます。
世伝の写本に数種の異本かおり、寛永三年9月25日会に及んでいます。
『茶道古典全集』第六巻に所収され芳賀幸四郎の詳細な考証と注解があります。