家長彦三郎 いえながひこさぶろう

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鶴田 純久の章 お話

筑後国(福岡県)柳川焼の創始者。
『本朝陶器孜証』によれば、もとは美濃国(岐阜県)の恵奈氏で、文禄の役(1592-3)の際鍋島加賀守に従って朝鮮に出征し、同国の陶工からやきものの技術を口伝されその工人を従えて凱陣、肥前国名護屋(佐賀県唐津市鎮西町)で土器をつくりました。
たまたま豊臣秀吉に謁見したおり献上した土器が大変賞賛され、家長の姓を賜り、「土器の手際、比類なし。
九州の名護屋に於て司となすべき者なり」の朱印状を受けました。
その写しに記載されている日付は天正二十年(1592)12月26日であります。
1604年(慶長九)11月筑後国(福岡県)に封ぜられた田中兵部少輔吉政に望まれて筑後に移り、三瀦郡蒲池村(柳川市蒲池)に居住して土器を製出、以下代々彦三郎を名乗り筑後国焼物司役の御判物を授けられ献上御用を勤めました。
『日本陶磁器史論』には家永とあり、「南京焼由緒書」および「家永系譜」の二旧記から「彦三郎は文禄年中明人陶範丘なるものより陶技を受く、その子孫分れて一は柳川焼を製し他は肥前伊万里郷藤の川内にて磁器を作る」としています。
しかしこの二旧記の記事には矛盾撞着が多く信じ難いです。

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