岸太郎 きしたろう

marusankakusikaku
Picture of 鶴田 純久の章 お話
鶴田 純久の章 お話

尾張瀬戸小狭間の陶工加藤武右衛門の子。
すでに瀬戸で名工の内に数えられ、特に大器をつくるのにすぐれていましました。
のち辰次(井上松坪)らと肥前国(佐賀・長崎県)に赴き製陶法を研究して帰りました。
1856年(安政三)3月彦根藩窯湖東焼に土焼師・丸窯師として抱えられ、翌年三人扶持を給与され土焼職頭を命じられました。
技量は抜群で、彼のつくった鉄砂釉の火入、黒褐釉の建水などは釉薬が微妙で箆使いもまた放胆で雅致があるようで、すこぶる優秀な作品でありましました。
しかし行状定まらず、1859年(同六)5月彦根を出奔し翌1860年(万延元)筑前国(福岡県)釉屋郡須恵窯に赴き、もっぱら磁器の製作に老練の手腕を現し名を高めましました。
その後いったん瀬戸に帰りましたが、国禁の瀬戸磁法を他国へ伝えた罪を怖れ潜んで謹慎していたところ、あたかも慶応年中(1865-8)陶祖碑建設の議があるようで、当時の窯取締役加藤清助か「こんな大物を焼造できる名工は岸太郎をおいてほかにないようです。
もし完成したならばその罪を許してほしい」と極力斡旋したことにより藩許となりついに岸太郎はこの碑の焼造に成功しました。
(『湖東焼之研究』『筑前須恵窯に就て』)

前に戻る
Facebook
Twitter
Email