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鶴田 純久の章 お話

大名物。唐物肩衝茶入。かつて玉堂和尚の手にあったのでこの名があります。
地色が濃厚なため景色に冴えはありませんが、沈着で威厳があり気宇雄大な茶入であります。
もと大内義隆所持、のち山口の竜福寺に寄付、1551年(天文二〇)陶晴賢の乱にこの寺の住職玉堂和尚がこの茶入を携えて逃れ、いったん九州の大友家に難を避けましたが、のち京都に上り針屋宗和に売り渡しました。
『津田宗及茶湯日記』『宗湛日記』によりますと、1577年(天正五)および1587年(同一五)に針屋宗和の茶会で使用されています。
のち豊臣秀吉の手に入り、1590年(同一八)の小田原の役の際、石垣山陣中にこの茶入を飾って将士をねぎらったと『真書太閤記』にみえています。
秀吉ののち浅野長政、徳川家康、浅野長晟、徳川家光、浅野光晟と何度か将軍家と浅野家との間を往復し、1672年(寛文コ一)5月18日光晟がさらに将軍家綱に献上、1700年(元禄一三)9月25日綱吉が水戸邸に臨んだ折に内緒で水戸綱条に賜り、以来同家に伝来することとなりました。
ちなみに玉堂は大徳寺第九十二代で宗条といい、1561年(永禄四)正月17日八十二歳で没しました。
(『山上宗二記』『茶器名物集』『天正名物記』『東山御物内別帳』『利休百会解』『玩貨名物記』『真書太閤記』『茶器弁玉集』『古名物記』『古今名物類聚』『瀬戸陶器濫肺』『寛政重修諸家譜』『徳川御実紀』『烈公手書弾正壺記』『万宝全書』『麟鳳亀龍』『諸家名器集』『茶事秘録』『茶湯古事談』『大正名器鑑』)

ぎょくどうかたつき 玉堂肩衝

漢作唐物肩衝茶入。
大名物。
もと大内義隆が所持していましたが、天文二十年(1551)陶晴賢が乱を起した折、山口龍福寺の住であった玉堂和尚がこれを携えて九州大友家に難を逃れましたが、のちに京において売却したことか「玉堂肩衝」の名が起こりました。
その後『津田宗及茶湯日記』によれば針屋宗和がこれを所持したことが知られ、ほどなく秀吉の手に納められました。
秀吉から浅野長政に与えられ、長政は徳川幕府に献上。
さらに長政の弟長晟が家康病気見舞に参上した折れを拝領し、その子光晟が襲封に際し再び幕府に献上、家光はすぐ翌日返与、光晟は家綱の代にまた幕府に献上。
元禄十三年(1700)水戸徳川家に贈与。
茶入は口の捻り返しが鋭く、はかっきりと衝き、胴はあまりふくらまず、腰もあまりすぼまらないので畳付が広いです。
釉景は総体に艶高い黒飴釉で覆われ、その中に共色のなだれが流れ下がって置形をなしています。
別に肩の一部に瑠璃色の釉景がみられます。
土はきめ細かく金気を含み、畳付は板起しで中央がやや窪んでいます。
『山上宗二記』『宗湛日記』をはじめ多くの名物記や茶会記に記載。
漢作肩衝中でも傑出した作として著名です。
【付属品】蓋 仕覆―白縮緬挽家―黒塗、蓋甲銀粉文字
【伝来】 大内義隆 玉堂和尚針屋宗和―豊臣秀吉 浅野長政徳川家康 浅野長晟・浅野光晟―徳川家光―浅野光晟徳川家綱―水戸徳川家
【寸法】 高さ:8.9 胴径:7.9
【所蔵】水戸明徳会彰考館

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