京都粟田(東山区)の陶家。
粟田陶工の旧家の一つで、慶長(1596-1615)の頃よりすでに製陶に従ったといいます。
正保の頃(1644-8)初代小林徳右衛門が粟田口に窯を築き鍵屋と号しました。
二代もまた徳右衛門といいます。
元禄年間(1688-1704)三代茂兵衛が粟田青蓮院の宮の御用を仰せ付けられて錦光山の名を賜りました。
また当時将軍家日用の茶碗は粟田口焼の蛋白色のものを用い、三文字屋の専業で三文字屋は御茶碗師と称していましたが、延享(1744i八)の頃に至って資産が窮乏して幕府の用品を製造することができず、幕府もこれを補助したがついに堪えることができませんでしたので、1755年(宝暦五)粟田陶工を簡択して錦光山・岩倉山の両人に製造を命じました。
錦光山は御用茶碗を焼くほかに天目茶碗・御鷹野茶碗などをつくりましました。
四代・五代ともに喜兵衛と称し御用陶工でありましました。
オランダ写しあるいは御室仁清風のものをつくり、マル宗ともいきましました。
六代宗兵衛の頃から姓を錦光山と改め、青木木米に師事して磁器の製法を伝習し、維新の頃製品を改良して貿易を始めましました。
京都磁器海外輸出の最初であったろう。
七代宗兵衛はますます貿易に励み、欧米を視察して製品の改革を図り斯業に大いに貢献しました。
緑綬褒賞受賞。
1928年(昭和三)2月没、六十一歳。
(『本朝陶器孜証』『陶器集解』『日本窯業大観』)