黒色土器 こくしょくどき

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鶴田 純久の章 お話

古墳時代後期(六世紀)から奈良・平安時代にかけての土師器のうち、表面を緻密にするため、炭素を吸着させて黒色にした土器。
後身の瓦器とは違って、窯を用いずに焼き上げています。
黒色化の具体的な方法に関しては想像の域を出ないが、海外の土俗例のように、焼成後の土器がまだ熱いうちに取り出して板の上に伏せたり、籾殻や木屑の中に埋めるなどの方法や、焼成冷却後、土器に油を塗ってそれを燃やしたり、葉を入れて燃やすなどの方法が考えられます。
土器の内面のみを黒色にしたものと、内外両面を黒色化したものとがあるようで、それぞれをA・Bと呼び分けています。
なお黒色にする面は調整の際にていねいに磨研しているのが常であります。
東日本では古墳時代後期以来黒色土器A・Bが共にあるようで、内黒の土師器と呼ばれています。
須恵器生産が盛んであった東海地方を除外した地域、特に信州・北関東・東北地方南部に多くみられ、杯・碗・高杯まれに鉢などの器種かおる。
この東日本の黒色土器は畿内および西日本で六世紀に須恵器の杯が食器として普及したのに相応じて、須恵器に代わるものとして出現し一般化したものと考えられます。
畿内地方で年代を知ることのできる最も古い黒色土器は、平城宮跡で出土した765年(天平宝字九)頃の実例であります。
畿内地方の黒色土器には杯・皿・碗・高台付碗・煮沸用の甕などが多いが、甑・鉢・硯・平瓶などもまれにみる。
土師器との形態差は特になく、内面を箆で磨いたのち渦状の暗紋を飾るなど、土師器にない手法をみるものもあります。
十世紀にはいると、器種は少なくなり、口縁端部内面に一条の沈線を巡らせた高台付碗と甕が多くなります。
なお奈良時代末では黒色土器Aが圧倒的に多いが、平安時代に入るとBも多くなります。
土師器と黒色土器との比率をみると、九世紀後半では五対一程度でありますが、十世紀前半には、二対一前後と黒色土器の割合が急増しています。
そして十一世紀後半には黒色土器は窯でいぶし焼きする瓦器に変化します。
畿内地方における黒色土器の普及は須恵器の衰退、とりわけ供膳形態の器種の減少と密接な関係があると考えられています。
(小笠原好彦「丹塗土師器と黒色土師器」『考古学研究』一八ノ二)

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