鶴田 純久
鶴田 純久

加賀国(石川県)の磁器。
わが国最初の磁器の一つで、柿右衛門・仁清と共にわが国彩画陶磁器の三源流の一つと称され、特に作風の男性的健勁豪まをもって著名であります。
その創起については寛永年間(1624-44)説、正保・慶安(1644-52)説、承応二年(1653)説、明暦元年(1655)説などがあります。
1639年(寛永一六)加賀藩三代前田利常の三男利治が江沼郡大聖寺(加賀市)に分藩した時、家臣後藤才次郎定次・田村権左右衛門らに封内諸所に製陶を試みさせ、正保(1644-8)頃九谷村(江沼郡山中町九谷町)に良好の磁土を発見しました。
ちょうど利治も同地の吸坂焼程度のやきものには飽きたりない頃であったため、万治年間(二858-61)定次の子忠清を肥前有田に派遣しました。
忠清はつぶさに苦心したが陶家の秘法は固く、たまたま長崎において中国明朝から亡命の陶工に会い、これを伴って帰国し、寛文(1661-73)初年より旧地九谷村に磁器の製造を起こしたと伝えられます。
時に狩野探幽の門下である久隅守景が金沢でその器に絵付をなしたといいます。
1674年(延宝二)2月、江沼郡林村(小松市林町)において藤田吉兵衛らが皿鉢類の陶器を出しました。
これは民窯であったが製品は九谷村の藩窯と大差なく、現今ともに古九谷と称されています。
以後厚く藩の保護を受けて約三十年間継続したが、幕府の猪疑や鍋島藩の抗議などの事情によって、元禄(1688-1704)初年まったく廃絶してしまりました。
なお古九谷という称呼は、文政(1818-30)年中に開窯した吉田屋窯において、この地の古製を区別して古九谷と呼んだのに始まり、当初は大聖寺焼と称されたようであります。
さらにその技法の伝統については創始年代・創始者後藤才次郎忠清の正体と共に諸説があるようで、有田において伝習したともいわれたり、また木原山説・渡支説などがあります。
近年有田古窯址から藍九谷風の磁片や、誉銘あるいは太明銘の磁片の出土をみたので、古九谷の一部が初期伊万里の作であるとする説もあります。
「製品」皿類が最も多く、鉢・汲出し茶碗・徳利・香炉など多くは型物であります。
点茶具・酒盃の類はまれであります。
絵付はその最も特色とするところで、意匠構図が卓絶し、筆力は雄勁潤達自在で、しかも端厳であります。
描かれている鳥獣・草木・山水・家屋すべてが大小の比較にとらわれず、彩色はまた大mで多く現実を超え、かえって調和の美を示しています。
時代順の作風によってこれを説明すると、
1)吸坂古九谷古九谷以前に同郡吸坂の地(加賀市吸坂町)において焼かれたものです。
古九谷の起こる道程にあったものというべきでありますが、古九谷と同じく大聖寺城内で絵付されました。
瀬戸風の褐釉陶または備前風妬器の抹茶器を主とします。
この素地に南京風柿釉を施し、また白地を現わすなど工夫して色絵・赤・銀などで文様を加えています。
いわゆる吸坂焼でありますが、この種の破片が有田窯址から出土するので、一部では初期伊万里説があります。
2)祥瑞風色絵古九谷祥瑞手の染付模様をそのまま色絵としたものです。
丸文模様が特に多く、おおむね古九谷初期の作であります。
3)明様五彩古九谷古九谷中の代表的優良品。
素地は洗練され画風もまた高尚で、中国風の花鳥・山水・人物および文様の絵付が円熟しています。
骨描には黒と赤を用い、濃色には緑・黄・紫・紺青・赤の五彩を交え、上等品には画中・高台・印款・周線などに染付を加え、または柿色の縁錆を施しています。
この手のものを献上古九谷と称します。
4)狩野画古九谷明様五彩で絵付してありますが、画風が著しく狩野風に変わっているものです。
守景直絵と称するものはこの期の作であります。
純中国風のものより少しのちの作であるだろうが、磁質はかえって劣り、染付は冴えず、縁錆のないものが多いようです。
5)宗達風古九谷俵屋宗達の風を酌んだものです。
狩野風と同時またはやや後期に属に桃山風の寛潤を示している縁紅・染付ともにほとんどなく、また五彩全部を用いるものが少ないようです。
素地はいささか白味を帯びて狩野風よりは端正であります。
6)三彩古九谷宗達風の終わり頃から明工が持参した彩釉がおいおい少なくなったためか、まず紺青姿かを消し赤もまた使われず、黒のみをもって描き紫・黄・緑の三色をもってだみたものです。
この種の上手物にはなはだ薄い素地があるようで、透明の度も増し、また少量の金銀を点じたものもあります。
7)二彩古九谷さらに紫を使わず黒描の上を緑と黄のみでだみたものです。
この種のものは焼成の火度が低く、素地は分厚で陶器に近く、細ひびのあるものがあります。
おおむね全面に花鳥・魚獣などを筆太に描き、二色をもってだみたものが多く、後世の吉田屋風の範をなしています。
なお二彩および前項三彩のだみたものをその色調の似ているところから交趾手古九谷と称え、また黒線の上を透明な色彩でだみた手法を捉えてペルシア手古九谷と称え、単に青手古九谷ともいいます。
8)赤絵古九谷(別項)
9)余り手古九谷(別項)
10)乳白手古九谷やや後期の作に柿右衛門の胎質に似た乳白色の素地のものがあります。
文様はおおむね赤・金・銀をもって描き、まれに紺青・紫・緑を点じ交えます。
だみたものはないようです。
しかも紺青は濁りを帯び、紫は冴えず、緑もまた手薄く明様の彩色と異なるが、赤だけは古九谷特有のもので、図柄もまた古九谷の様式であります。
11)瑠璃古九谷胎質・青色ともに中国清朝の舞青磁器に似ていますが、絵付の風は古九谷であります。
金・銀・赤のみで描き彩色を使わないようです。
しかも赤には少し肉があってあだ艶がみえ、五彩古九谷の赤と異なります。
染付金彩古九谷の赤はこの類であります。
12)青磁手古九谷古九谷には青磁は少ないようです。
多くは青磁釉と白磁釉を塗り分け、または瑠璃と片身替りになっていて、全体に青磁釉をかぶせたものはみないようです。
色は淡緑色で品位に乏しく、その青磁釉の上へ金銀で絵を描いたものもあるが他の色彩を交えないようです。
13)染付金彩古九谷古九谷中の晩期に属す。
極めて純白精良な素地に鮮明な染付藍をもって模様を現わし、その上を金・銀・赤で括った精巧なものです。
14)藍古九谷(別項)。
これらの種類のほかに仁清古九谷または大聖寺仁清と称するものがあります。
吸坂窯産の一種で、絵付の緑・紺青・黄・赤の各色または開片・錆釉など仁清の風を現わしています。
別に西域文様の配色を加えた器があります。
なお伝によりますと、古九谷は白素地と染付または青磁・瑠璃などの下釉のみを九谷の窯で焼き、大聖寺城内に運んで色絵付をなしたものといいます。
「古九谷の印款」二重角中に隷書に似た種々の崩し方をした「福」字が最も多く、次に「禄」字の変形、または室町時代の糸印に似た読み続き文字があるようで、中に単に「太明」「万暦」「太明嘉精年製」と書したものがあります。
また染付および青磁の類には二重丸に「寿」字が多く「寿」「福」を重ね組んだものや「天下太平」と記したものがあります。
また無銘のものも少なくないようです。
「古九谷の模作」若杉窯以来小松・大聖寺・山代などにおいて模作ははなはだ多いようです。
本多貞吉が在世の間に模したものは、磁釉に深味がなく、色彩は淡く、赤色にやや黄味があるようで、図様はいくぶん伊万里の気分を交えています。
嘉永・安政(1848-60)頃の模作は塗り潰しが多く彩釉の艶が光りすぎでありました。
1887年(明治二〇)頃山代の九谷陶器会社で写したものは、素地・高台づくり・縁錆・絵付・形状・図様・印款など巧みに写し真物に迫っていたが、ただ染付の色が概して淡く奇麗すぎた。
また明治末頃大聖寺の井上隆平が復興した九谷窯は、原土を旧地より採って精製したため真疑を分かち難い。
(『九谷陶磁史』)

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