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鶴田 純久

出光美術館
高さ:6.8~7.0cm
口径:15.0~15.2cm
高台外径:5.0cm
同高さ:0.9cm

珠光青磁は、遺品の数の少ないもので、『大正名器鑑』にも、加藤正義氏所蔵のものが、一碗録されているだけです。珠光青磁という名称は、茶祖の村田珠光が、上手で、きれいな砧青磁よりは、下手で、枯淡なこの類の青磁のほうが、茶には適すると思い、この類の茶碗を愛したところから、起こったと伝えられています。桃山時代には、珠光茶碗と呼んでいましたが、これを、いつ珠光青磁と呼ぷようになったかということは、はっきりとしません。江戸時代になってからでしょうが、江戸時代のいつごろからでしょうか。
珠光青磁は、南宋時代、福建省の同安で作られたものどされています。珠光青磁が、南宋時代のものであることは、それが鎌倉時代の遺跡から、かなり発見されることによっても明らかです。茶碗が発見された例は知りませんが、同じ手の青磁の小皿は、佐賀県からも、福岡県からも出土しています。また小皿の破片は、福岡県下、各地の鎌倉時代の遺跡や、広島県福山市芦田川の草戸千軒の遺跡から、相当発見されていますし、また鎌倉海岸でも、かなり採集されています。
珠光青磁が、どこで作られたかというととは、久しく疑問とされていました。戦前は、米内山庸夫氏が昭和の初め、浙江省徳清県で、珠光青磁片を採集されていますので、徳清窯ではないかと想像したこともありますが、これは誤りでした。同安窯は、1952年6月、福建省文物管理委員会が調査し、ついで1956年には、故宮博物院の陳万里氏たちが調査し、『文物参考資料』(1957年第9期)に、「調査閥南古代窯址小記」と題して発表しています。
これによって、われわれは珠光青磁が、福建省の同安で作られたものであることを、はじめて知りました。また泉州の碗窯郷でも、ほぼ同じようなものが作られており、わが国に渡っているものがヽこのうちヽ。どちらで作られた七のであるかは、今後の問題です。
珠光青磁は、。青磁といっても、素地は灰白の磁胎ですが、これに透明性の釉薬が、比較的に厚くかかり、酸化して、枇杷色になっているものが多いです。珠光が、砧青磁よりこの茶碗を選んだのも、酸化して、暖かい、柔らかな枇杷色をしているからではないでしょうか。たとえば、京都の銀閣寺にある、珠光青磁茶碗、銘「四海兄弟」のよう青磁をまれにはありますが、珠光青磁は人形手青磁と同じように、青みを帯びた、珠光に、酸化して、枇杷色を呈しているのが、その特徴とされています。
珠光青磁はまた、俗に猫掻きと呼んでいる、櫛で押したり、ひっかいた刻紋が釉下にあるのが、その一つの特徴とされています。これは竜泉系の浙江省青磁には見ない文様で泉州付近の、福建省だけに流行した紋様のようです。
この珠光青磁茶碗は、京都の本願寺に伝来したもので、素地は、灰白色をした堅い磁質です。これに、透明性の、うっすらと枇杷色をした釉薬がかかり、腰以下は露胎です。
口が広く、胴がふっくらと張り、小さい、締まった高台の付いた、平たい茶碗です。作りは厚く、外側には、櫛でひっかいた、俗にいう猫掻き紋があり、内面三方に、自由で、のびのびとした線で雲形を刻し、その中に櫛めを、じぐざぐに押した紋様を刻してあります。
口辺と高台に、わずかのすれがありますが、完好に近く、珠光青磁としては形も端正ですし、紋様も整い、焼成も上々の、すぐれた茶碗です。
(小山冨士夫)

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