京焼の巨匠。純日本趣味陶器の創成者として有名で、後世京焼系統または仁清系統と呼ばれる独自の一系統を大成した。
【伝記】丹波国北桑田郡野々村(京都府北桑田郡美山町)で生まれた。野々村姓はこれに因んでいる。またかつて仁清が京都北野天満宮に奉納した土焼三具足に「野々村播磨大掾藤原正広(一に藤政ともいわれる)入道仁清」とあるとのことより藤原姓であるともいわれる。仁清というのは仁和寺宮から賜わった仁の字と自身の名の清を取ってしたものである。そして初名藤原正広を仁清と改めたのは正保(1644~8)の頃とする説もある。次に仁清の師匠関係についてみると、若年の頃に土佐国(高知県)に預けられた際、松柏(久野正伯)について陶法を修得したという説があったり、またそうではなく土佐にいた帰化朝鮮人仏阿弥こそが仁清の師であるとする説がある。ま別に清閑寺(京都市東山区)の宗伯(曾谷宗伯)に学んだといい、さらに粟田口(同)の三文字屋九右衛門の弟子となり、茶入の法だけは竹屋源十郎より伝受したともいわれている。またその色絵錦手の方法は明暦年間(1655~8)に茶碗屋久兵衛が青山幸右衛門より修得した肥前法によって発明したと伝えられる。さらにその生没年にも定説がなく、1596年(慶長元)生まれと推定するもの、1660年(万治三)70歳で没したとするものや、1666年(寛文六)に没したとするものもある。このように諸説があって仁清の正確な伝記の詳細は判明しないが、(一)仁清が明暦年間に柿右衛門の色絵を伝えたとするとその製作量があまりに多すぎること。(二)仁清が讃岐国(香川県)丸亀の京極高和に抱えられ(京極氏は一六五八、万治元年一月播磨国=兵庫県=竜野より丸亀へ移封)、高和の子高豊(1655~、明暦元年生まれ、1694、元禄七年没)の下絵の器を焼いたという伝説。(三)「延宝二年寅(1674)十二月二十九日請人仁清、借り主清右衛門、名代清次郎」および「延宝五年丁巳年(1677)二月十二日野々村仁清、同清右衛門」とあ金子借用証(ただし写し)の発見されたこと。
(四)『森田久右衛門日記』延宝六年(1678)八月二十日の条にみえる「御室焼見物に参る、別に替りたる儀も御座無く候、釜所も見物仕る、釜も七ッ有、唯今之焼手、野々村清右衛門と申也則井筒屋半右衛門差越取持持参仕る」の清右衛門が仁清とすれば、(五)仁清が山城国(京都府)N訓郡大原野にある安養寺に寄進した香炉の器底に「明暦三年(1657)播磨入道奉寄進仁清卯月候」とあり、この器について1843年(天保一四)三月同寺住職実玄が記した添書「仁清奉納香炉之記並付属証」に「同氏ハ当院檀那若年ノ砌本尊ニ工業上達之致祈願満願之後当寺及本山御室宮槇尾三ヶ所ニ奉納之云々」とあることと合わせて、すなわち1657年(明暦三)当時が彼の最も打ち込んだ時代と考えられること。(六)加賀藩家老の日記に、1693年(元禄六)前田家より仁清に対して茶器を注文したところすでに仁清は没しており、二代の代に当たっていたとあること。これらの数ヵ条に基づいて考えるならば、仁清は少なくとも1660年(万治三)あるいは1666年(寛文六)に没したのではなく、実際は元禄(1688~1704)初年まで生存した人のように思われる。しかし仁清の墓所はまだ発見されておらず、仁清に数代あるともいうので確実在世期間の考定は現在非常に困難といわざるを得ない。ただ金森宗和の没年(1656~、明暦二年、73歳あるいは85歳)を中心としてその前後に生きた人であることは誤りのない事実である。仁清は長次郎における利休のように、宗和の指導・援助によって独得の美しい陶器をつくり出したからである。しかし『茶わん』六十九号において蜷川第一は、仁和寺伝来の記録『御記』より仁清関係の事項を次のように報告した。『御記』慶安三年(1650)七月十九日の条に「丹波焼清右衛門来」、明暦元年(1655)九月二十六日の条に「於庭上壺屋清右衛門焼物之形仕懸御目」、元禄九年(1696)三月十日の条に「野々村清八自今以後二人扶持被下候旨被仰出候也」、元禄十一年(1698)には「野々村清右衛門御召にて今朝より来り夜深更に及び帰宅」「今日又清右衛門来」「焼物師清右衛門松木十本拝領申候」「御門前清右衛門近内焼物仕度御届出」などとあって、仁清と仁和寺宮との関係は明らかである。中でも丹波焼清右衛門とあるのは特に注目すべきである。記録のうち元禄九年野々村清八とあるのはあるいは仁清の末子で、二代目を継いだのではないだろうか。ただし前田尊経閣文庫の『貞親日記』の元禄八年(1695)頃の条に、仁清に注文した香合十三個ができてきたが出来がよくないという記録がある。仁和寺の『御記』は1649年(慶安二)に始まる記録であるが、現存のものは延宝(1673~81)の中頃および天和・貞享(1681~18)の部分が欠けている。なお当時宮家では仁清の作を御門前焼といったが、『真敬入道親王記』『二条家文書』『槐記』などには御室焼または仁和寺焼とある。宗和もまた「おむろ「焼」と箱書している、と。仁清の窯所として伝えられる所は、御菩薩(深泥)・清閑寺・小松谷・渋谷・清水・音羽山下・粟田錦光山岩倉山・鷹ヶ峰・御室・大内山・鳴滝・播磨国(兵庫県)明石寺・讃岐国(香川県)丸亀など十五ヶ所にも上るが、最も確実なのは御室窯である(嘉永年間・一八四八五四、永楽和全もこの旧地に窯を築いたことがある)。
ろくろ【作品】昔から仁清が尊ばれる理由は、彼の制作が従来の諸工と異なり中国・朝鮮の模倣より一歩出て純日本風のものであった点にあり、その優雅で美しい趣は実にわが国陶磁史の一時期を画したものとされる。すなわち轆轤の技術が極めて精巧で、紙のように引き上げた曲面の極めて優美なこと、婉麗で瀟洒な絵付、華美な配色、柔らかい筆の動き、軽快な箆の痕などその意匠はいずれも独創的で工夫のないものはない。仁清の色絵物の素地をみると、概して二種類に分かれ、一つは青味がかった薄鼠色がちの釉を素焼の上に掛けたもの、もう一つは少し茶褐色を帯びた釉を施したものである。その上に鮮かにきらびやかな色絵を付けたもので、どれにも仁清の円錐と呼ぶ連銭貫入がある。そして色絵物以外には青磁・染付を除きほとんどわが国や朝鮮のすべてのものを試み、瀬戸写し・高取写し・信楽風・三島・刷毛目・御本などがあり、作品は茶入・花入・茶碗・水指・香合鉢・向付その他に及んでいる。なお仁清の模様絵付には狩野派の筆使いや土佐風の絵付もあるという。もっとも仁清自身は狩野派が得意で、製品の中に探幽の真似跡もあると伝えられる程だが、これを模様化するについては必ずしも狩野派に拘泥せず、蒔絵や当時の木の器の絵および桃山時代の絵画に大きな影響を受け、さらに宗和らの好みも受け入れただろうことは想像できる。次に茶碗その他の高台の厚みなどもほとんど同じ厚さの真円を描き、また印款を押す場所も器物の裏の向かって左、高台の左下、もしくは底の真中、裏に多少箆または糸切などの模様がある時はそれと釣合いのとれるよう押印の場所に注意をしたようで、非常に謹厳な作風も仁清の一特徴である。さらに茶入・水指・茶碗・茶壺の一つ一つについてその特徴を概説すると、(一)茶入釉立ちは茶褐色で仁清特有の落ち着きがあり、土はきれいで糸切は見事である。特に肩衝茶入は大体唐物を標準としたが、華奢でほっそりし丈が割合に高く、金森宗和好みの銘鷲の山茶入などは高さが約二七センチある。(二)水指上記茶入の釉立ちに近いものと彩絵のものがあり、彩絵のものは茶壺と共にきらびやかなものが多い。(三)茶碗多くは呉器形でまれに端反りのものがあるが、高麗茶碗に比べ形。
が締まり胴より腰への曲線が非常に味わい深い。
全体に薄づくりで器用につくられ、今日残存するものは彩絵のものが多い。彩色の配合に渋味があって洒落ている。(四)茶壺信楽土でつくった仁清信楽を除き彩絵が多い。万治(1658~161)以降の晩年のものは薄づくりが多く、形は真壺まは宋のものと異なり丈が割合に低く胴の丸味がふっくりとしてあでやかである。しかも彩絵は絢爛を極めている。
【銘款】器物に付ける窯印というものは古くから使われていたが、自分の製作であることをはっき表示するために銘款を用いたのは仁清が最初である。種類が多く、角形の中に清とあるのは仁清と名乗る以前に用いたものであるという。楕円に仁清とあるもののうち小さいものを小印という。
また輪郭のないものにも大小二種類がある。さら宗和印といって仁清の清の字の偏のさんずいが少し左の方へ曲ったものがあり、これは金森宗和より与えられたといい、これにも大小二種類がある。また七宝印(あるいは大内印)・幕印というものがあり、いずれも仁清晩年の作で他にきの作よりは時代が少々馬若いと思われる。七宝印を用いたものは東福門あ門院へ献上したものと伝えられ秀作が多い。
また幕印のあるものは後作なのですべて出来ばえがよいという。な岩倉窯で製作した器には洛北の印があり、清閑寺では清の印を用いたとする説があるが、洛北印はそうでは清周味なく御菩薩あたりの陶工で仁清とは別人であるといわれる。以上述べたように仁清はわが国陶磁史上最も偉大な存在で、その陶法は京焼として粟田焼・清水焼の二大系統に分かれ、やがて諸国に伝播した。しかし巨匠であるが故に後代の偽作・偽印は極めて多く、模作として一種の作風を出した例を上げるならば和全・与三兵衛らがいるが、それは別として真葛長造などは一時仁清の偽作のみに没頭して本来の妙技を失った程である。加賀国(石川県)の横萩錦三郎(号一光)もまた仁清の模作が上手であった。さらに仁清の画幅と称するものにも偽物が多く、近代の偽作はおびただしいといわれている。(『森田久右衛門日記』『古画備考』『画家人名略』『扶桑名画伝』『茶湯評林』『茶道筌蹄』『陶器考付録』『本朝陶器攷証』『工芸志料』『観古図説』『陶器類集』『大日本窯業協会雑誌』1五八『工芸鏡』『工芸遺芳』『大成陶誌』『日本陶瓷史』『彩壺会講演録』『陶磁』二ノ二『茶わん』二四・二九・六九)※おむろやき
野々村仁清は丹波の出身で、京都御室仁和寺門前の御室焼を指導し、京焼色絵陶器の完成者として名高いです。
茶壺に多くの優品を残しており、この壺でも見事なまでの轆轤の技を見せ、上絵具と金泥を使い、立体意匠の魅力を充分に生かして、気宇の大きな狩野派風の月梅図を描きます。仁清絵茶壺の代表作であります。