俗に寛文美人と呼ばれています美人像をあらわした人形で、形姿はまったく同じ作行きであります。頭髪は御所髷に結い、小袖と打掛を着使用しています。御所髷は寛文頃に流行した髪形であり、もとは御所に仕える女が髪の上げ下ろしを手軽にできるように笄一本に髪を巻いて結いあげた髪形でありますが、いつしか遊女や町方で結われるようになりました。ここに図示されたこれらの作品は、いずれも遊女をあらわしたものと思われます。遊女ですことは文化四年の 「睡余小録」 に、この種の人形の図を書いて 「徳子 吉野の像なり」と遊女の名をあげていますことからもうなずかれる。
また小袖や打掛の模様も、寛文雛形などに図示されています小袖模様と類似していますので、これらの人形は寛文から元禄頃にかけてつくられたものと推測されます。またイギリスのバーレー・ハウスの収蔵品目録の1688年(貞享五年) の項に、この手の鹿置物 婦人像などの記載があるので、これらがその頃につくられたものですことはヨーロッパの記録のうえからも明らかであります。しかも図26~28、161 162などは、いずれも近年イギリスから請来されたものであります。
図161は黄地に水玉文の小袖、打掛には背に大柄な熨斗と流水文が描かれています。図162は紅葉と桜花を細かく散らした小袖を着て 蔓草文の打掛を着用しています。図163は赤地に唐草文を白く抜いた小袖の上に、紅葉と 「木」の字を意匠化した打掛を着用していますが、これも寛文頃の雛形に見られるものであり、「木」の字に樹木を意味づけ、それに紅葉を散らしたいかにも江戸趣味の豊かな模様であります。
図164は桜川文の小袖に葡萄唐草模様の打掛を着用し、図165は霞に青海波水玉模様の小袖に、「木」の字と紅葉、棕櫚の葉をあらわした打掛を着用しています。図166は紗綾形に紅葉散らしの小袖と、鉄線蓮唐草模様の打掛を着用しています。いずれもかなり上質の乳白手素地で、図165 166の底部には布目が残っています。それぞれの意匠は寛文雛形などに取材しながら、色絵磁器独特の表現法をとっています。