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鶴田 純久の章 お話

四世紀から七世紀にかけて、わが国の古墳の外面下部を土中に埋めて立て並べられた黄褐色から赤褐色の素焼の土製品で、円筒形のものと種々の物の形を象ったものとがある。青森県を除く本州・四国・九州の広い範囲から発見される。土師器が普通緻密な胎士であるのに対して、四、五世紀の埴輪は砂礫を多く混入した粘土を使用しており一般にあまり堅くない。六、七世紀には赤褐色に堅く焼き上げたものが現われる。ただし暗紫色または灰黒色に焼き上げられた堅い須恵質の埴輪もある。埴輪は粘土の紐や板を積み上げたり継ぎ合わせたりしてつくった中空の土製品であって、成形の際表面を整えるために使われた道具の跡であるいわゆる刷毛目を顕著に残していることも特徴の一つであり、また赤や白の彩色を施したものもある。古墳に埴輪を立てる目的については起原論とも関連して諸説が提出されているが、いずれも限定された時期についてのみ妥当するものであって、埴輪全体については説得力のある仮説はま提出されていない。なお古墳および埴輪製作所跡以外の遺構が不明確な埴輪発見地を祭祀遺跡と認める見解も発表されているが、祭祀遺跡と決めるには遺構の実態を正しく把握することが必要である。埴輪はその形状から円筒埴輪と形象埴輪とに大別される。円筒埴輪には普通の円筒埴輪と朝顔形円筒埴輪との二種があり、壺形埴輪もこの部類に属する。形象埴輪は種々の物の形を象ったもので、製作者が象ろうとしたものの種類によって、家形埴輪・器財埴輪・動物埴輪・人物埴輪に細分される。家形埴輪には住居・倉庫・納屋がある。器財埴輪というのは各種の器物を象ったもので、坩・高杯・合子・帽子・腰掛・蓋・翳・大刀・矛・弓・鞆・・盾・甲冑・草摺・舟その他何を象ったかわからないものもあって種類が多い。動物埴輪には鶏・雛・水鳥・鷹・犬・馬・牛・鹿・猪・猿がある。人物埴輪は男女の別、立像と坐像、平装と武装などの区別をはじめ、姿態にも持物にも変化が多い。これらの埴輪は例えば蓋形埴輪とか馬形埴輪という呼び方で表現される場合と、埴輪蓋・埴輪馬というように埴輪の後に象ろうとした物の名称を加える表現法とが用いられている。この表記法だと埴輪円筒埴輪家・埴輪動物などと呼ばれる。いずれにしても指示する埴輪の内容は同じである。なお人物埴輪についてはかつて埴輪土偶という呼び方が用いられたこともあるが、現在ではほとんど使われない。円筒埴輪は平均的な大きさが直径三、四〇センチ、高さ五、六〇センチの筒形で、外廻りに四、五本の凸帯を巡らした埴輪として最も一般的なものである。比較的古い時期に直径が一メートルに及ぶものや楕円形のものがある。凸帯で仕切られた数段のうちの二段に、互に直交する方向に孔をあけたものが多いが、二段以上にある場合もある。
孔の形は円形のものが圧倒的に多く、三角形・方形・半円形・形などもある。中には奈良県天理市布留遺跡出土の円筒埴輪のように、四段のうち三段数個から十数個の方形・三角形・半円形の透し孔をあけた例もある。ただしこの布留遺跡は祭祀遺跡と推定されている。円筒埴輪は高さ数センチの筒形を基礎として、その上に二、三センチ幅の粘土紐を輪積みか巻上げで積み上げ外面を整えてのち、凸帯を貼り付け透し孔をあけて成形したものである。円筒埴輪とほぼ同じようにつくられた埴輪で、円筒埴輪の上部を口の開いた壺形土器の肩から上の形につくったものを朝顔形円筒埴輪と呼ぶ。円筒埴輪には朝顔形埴輪にも、上部の二、三段にまたがって差渡しの方向で縦に長方形の板を付けたものがあって、鰭付円筒埴輪・鰭付朝顔形埴輪と呼んでいる。壺形埴輪は形が壺形で底部焼成前の穿孔をもつものをいう。成形法は土師器の壺形土器とほぼ同じである。形象埴輪のうち平面構成の部分が多い家形埴輪や形埴輪・舟形埴輪・腰掛形埴輪などは、平らな粘土板を継ぎ合わせる造形法が用いられたが、人物埴輪をはじめ他の形象埴輪の多くは円筒形を主要な構成要素としているから、粘土紐を積み上げて母体をつくり、細部を付け加えて形づくったものである。粘土板粘土の紐を並べてつくられていることが多いから、埴輪は粘土紐による造形品ということができる。人物埴輪の場合にはまず円筒形の台をつくり、脚部から胴体へさらに頭部へと粘土紐を積み上げていって、簡略化された異常に短い両腕を付け、目口の孔を切り込み佩用品や装飾品を固着させ、細部を表わして仕上げるということになる。人物埴輪の高さは、台を含めて七、八〇センチから一六〇センチ前後のものまであるが、普通の家形埴輪の高さは四、五〇センチ、弓を引く時左手に着するを象った埴輪の高さが四〇センチ足らずある。各種の埴輪の間に認められる大きさの比率が非現実的であるばかりでなく、個々の埴輪の構成や細部の表現をみても、埴輪は人物や器物を写実的に表現しようとしたものではない。人物形埴輪の造形法について蓮実重康は、円筒性を基体として部分的に造形したものと理解した。そして円筒性というのは幾何学的に抽象化された立方体ということであり、像全体の統一感が欠如しているにもかかわらず部分を極めて明晰に捕えていることに注目し、原始的な立体主義に基づくものであると説明した。野間清六は埴輪の美しさを分析して、懐古美・素材美・構成美・表情美をあげ、この埴輪美は単純性・率直性・健康性を基調として成立していることを強調した。この見解の当否はともかくとして、塑造が中心から次第に肉付けして発展していくのに対し、木彫は大きな素材を次第に削り落として目的に達するが、埴輪の独自の彫塑美はそのいずれでもなく、粘土紐によって最初から中空の像をつくるところにあるという野間の指摘は、土器の製作とも関連して注目すべきものであろう。古墳時代の服飾や建築・器物などの研究に埴輪がその材料として盛んに使われてきた。これらの研究にとって現在でも埴輪が重要な資料であることには変わりがないが、右に述べたように、埴輪は当時の服装や住居を必ずしも写実的に表現したものでないことを考慮に入れておく必要がある。埴輪の焼成には窖窯が用いられた。
古墳に立てられた埴輪の数が莫大な量に達すると推測されるのに対して、埴輪の窯跡は関東地方以外ではごく少数例しか知られていなかったが、1969年(昭和四四)大阪府羽曳野市誉田および白鳥で、畿内では初めて構造のわかる埴輪の窯跡が発掘調査された。五世紀と推定される九基の窯の存在が確認され、ほぼ完存した一号窯は長さ六・七五メートル、幅一・五六メートルで、奥壁の部分で約四〇センチ近くまで幅が狭くなっており、ここに煙道を取り付けたものと推測されている。二号窯は焼成部が七枚以上の床面をもち床面が約一〇度前後に傾斜していて、燃焼部と考えられる部分は傾斜が緩やかになりU字形に近い断面を呈し、内部から円筒を中心として蓋・人物・盾などが発見され、須恵質のものがかなり多いという。
この窯の構造は明らかに須恵器の窯と同じものである。古くから知られている関東地方の埴輪の窯跡も同様な須恵器系統の窖窯の構造であって、四世紀から五世紀初めにかけて古墳に立てられた立派な埴輪がどのような窯で焼かれたものかはなおわかっていない。埴輪の窯は十基から十数基が一群をなして発見されることが多い。茨城県勝田市馬渡では十四基の窯跡を巡って十三ヶ所の住居跡工房跡、十五ヵ所以上の粘土採取坑と埴輪集積はじべはにつち所などが確認され、さらに十四基の窯の中で同時期に使用された窯は二、三基であったことが明らかにされた。この事実に基づいて東国の埴輪は二、三家族からなる小集団の協業によって製作されたようであり、畿内先進地域における集団の規模や構成とは大きな差があったと大塚初重は推測している。埴輪の製作の担い手は土師部であったと考えられる。土師部というのは土器の製作を業とす職業部民であった。『日本書紀』によると、垂仁天皇の三十二年に皇后の日葉酢媛命がなくなった時、野見宿禰が出雲国の土部壱佰人を喚し上げ、殉死に代わるものとして埴で人・馬および種々の物の形をつくり天皇に献上した。天皇は意に添うものとして大いに喜び、これを日葉酢媛命の墓に立ての土物を埴輪と名付けた。野見宿禰はこの功によって土部臣となった。これが土部連らが天皇の喪葬を司る起縁になったものであるという。
しかしこの埴輪起原伝説は一般に信用されていない。考古学で明らかにされた各種の形象埴輪の出現の時期には差があって、この伝承と食い違っているからである。なお今使っている埴輪という名称はこの伝承に由来する。埴輪の起原は近藤義郎春成秀爾が明らかにしたように、吉備地方(岡山県全域および広島県東部)で発達した弥生時代後期の特殊器台形土器と特殊壺形土器に求められる。弥生時代の飲食物供献のための農耕祭祀用土器から葬送祭祀用の特別な土器が成立し、権威を高めていった首長の葬送に際してこれを象徴的に形象化したものが埴輪であり、その最古の例を岡山市都月一号墳出土の円筒埴輪と壺形土器と認め、これを畿内諸勢力が受け入れて盛行するようになった際、壺と円筒埴輪が合体して朝顔形埴輪が産み出されたという。形象埴輪については家形埴輪は死者の住家としてつくられたものであり、人物・動物および器材の類は死者のための葬列を表わしたものという後藤守一の見方がある。小林行雄は形象埴輪の中で早く出現する家形や器財の一部について、それを祭祀の場に用意された神の依代と考え得る可能性を示しながら、時代の推移と共に、丈の高いものをつくって人目につきやすくしようとした傾向があることを強調している。
水野正好は群馬県群馬郡群馬町の八幡塚古墳で発見された埴輪の配列を基礎に、人物埴輪の世界について「豪族を支える各機構がすべて、その職掌をあげて祭式に臨み、軍事集団は挟み衛る兵杖として、文人集団は容儀を粛しく整え、職業集団はその職掌にもとづく由縁の芸能を奏上している」と考えた。この祭式は「葬られた死せる族長の霊を、新たな族長が墳墓の地で引きつぐ」ものであるという。円筒埴輪は墳丘の頂の周縁と裾の二段に、あるいはその中段を加えて三段に巡らされるのが古い立て方である。その中に朝顔形円筒埴輪を含む。家形埴輪や器財埴輪は初め埋葬した部分を区画するように立てられたが、のちには前方部などにも立てられた。円筒埴輪は古墳に周濠が巡らされると外堤に、また墳丘の外に方形の壇を設けるようになるとその周囲にも立てられた。
全長一九七メートル、三段築成の前方後円墳であ神戸市垂水区五色塚古墳では、墳丘に立てられ円筒埴輪が二二〇〇本と計算されており、わが国最大の古墳である堺市の仁徳天皇陵は全長四八六メートル、後円部の直径二四九メートルあり、外堤をも含めて円筒埴輪だけで総計二万個を越えると推測されている。五世紀に人物埴輪や動物埴輪が現われ、六世紀になると関東地方では、前方後円墳の人目につきやすい側面に家・人物・動物の各埴輪と円筒とを立て、他の片側には円筒埴輪だけを並べる配列方法が流行した。千葉県山武郡横芝町の前方後円墳である姫塚古墳では、前方部の角から後円部にかけ延長約五〇メートルにわたって四十数個の人物埴輪・器財埴輪が出土し、墳丘上の原位置に復元されている。(小林行雄『論集日本文化の起源』一野上丈助「羽曳野市誉田白鳥遺跡埴輪窯址」「考古学研究』一六ノ三大塚初重「東国古墳の成立」杉原荘介・竹内理三編『古代の日本』七水野正好「埴輪芸能論」竹内理三編『古代の日本』二)。

両肩に襷を掛け、意須比と呼ばれる右前合わせの衣に、幅広い帯を締めます。髪は島田髷に結い、輪状の髪飾りをつけます。二重の頸玉・足玉に、手玉・耳飾りと盛装し、左腰には鈴鏡と香袋を帯にとめます。腰掛けは古墳に副葬される石製品や埴輪の椅子に似ており、この埴輪が神に仕える神聖な巫女を表現したものであることを窺わせます。
埴輪 はにわ

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