足利八代将軍。一四三五年(永享七)生まれ。六代義教の次男。
兄義勝のあと九歳で家督を継ぎ十五歳で将軍職につきましたが、幕府の補佐に人を得ず将軍としての政治能力を欠き、飢饉(ききん)疫病の天災がこれに加わり民力が枯れる中に、有力重職の内争からついに応仁(おうにん)の大乱を引き起こしました。
更に下剋上(げこくじょう)の風潮からしきりに一揆(いっき)が起こり、その在職十六年の間に徳政令を出すこと実に十三回に及んだといわれています。
このように無統制な乱雑にも義政は施すべき策を持たず、一四七三年(文明五) 三十八歳で職を子義尚に譲り、東山山荘銀閣を営み東求堂(とうぐどう)同仁斎をつくってこれに隠棲(いんせい)し、専ら学問・芸術の道に没いたしました。
趣味に広く和歌・連歌・能楽・茶の湯・作庭・書画を好み、書画・座敷飾りには能・芸・相阿弥の三代、作庭には善阿弥、立花には池坊専慶・専傾、聞香には志野宗信、茶の湯には能阿弥・村田珠光らを登用近侍させたと伝え、文運・芸術・芸能の面においては後世に東山時代の盛名を残すに至たりました。
一四九〇年(延徳二)一月七日没、五十五歳。法号慈照院。なお世に東山御物というものは、二代義詮(宝医院・瑞山)・三代義満(鹿苑院・天山)・六代義教(普広院・道山)より義政に至るまでの収集であり、『君台観左右帳記』『御飾書』はその品類・筆者・飾り様を整理詳説したものですが、特に「凡そ茶湯の名貸此時に乗りて文質彬々たり……即ち名物記に載する所の東山名物定也」とあります。
また同仁斎は茶室のもとであるともいわれるように、義政時代能阿弥・珠光らによって茶の湯における道具・茶室・茶法の形がつくられたのでしょう。