Tepe Sialk テペシャルク

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鶴田 純久の章 お話

イランの首都テヘランの南にあるカシャーン近郊の先史遺跡。第一層からは大型の鉢型土器が出土した。白い化粧土が掛かり、篭目状の文様がある。
紀元前四千年紀とされる。第二層の土器は回転台を用いて成形されたと推定され、赤地に黒の連続する動物群が描かれている。テーマは水鳥・山羊・猪などでその表現は生き生きとしており、このことからギルシュマンはイラン高原は彩文土器の発生地であるとする。第三層になると轆轤の使用と、下に火室をもち上方に焼成室のある窯が現われる。窯の下室は三個の火道をもち、上下室の間には十八個の火眼があけられている。焼成室は内径一一〇センチ、高さ五〇センチの半球状のものと推定される。ただし下室は通風のみに利用され、燃料は焼成室に器物と共に詰め込まれたとする見解もある。この直焰用形式の窯は、中国の鄭州西部の洛達廟で発見された殷代初期の窯と同じ形式のものであることが注意される。第三層の時期には、大形鉢・盃・高脚付きコップ・瓶などの器形がみられる。また焼成温度もかなり変化があり、そのため土器の色は灰・灰緑・赤など各種がある。文様には野生羊・山羊・水鳥・駝鳥・蛇などの動物文様が用いられ、一列に並べられたもの天ろくろと、表面を区画して文様を嵌め込んだものなどがあることに山羊などの角は大きく強調されて三日月形に変わってゆく。太陰信仰の影響がそこにみられ、鳥の首が長く描かれることはその神聖化と関連する。舞人・猟人・農夫の描写もある。第三層の終わり頃にシァルクは放棄されたが、続い前三千年紀が始まり、赤色・灰色の土器が用いられるようになった。このあとシァルクは前二千年紀の末までその歴史は知られない。やがて東方の影響を示す灰黒色・黒色の土器が用いられた。
前一千年紀になるとシァルクは新しい文明をもっイラン民族によって征服される。この民族は丘上に立派な町を建設し、墓地は町から離れた所につくった。この時期に有名なくちばし形土器が用いられるようになる。その特徴ある形からみて祭祀用土器とされる。また多様な彩文土器や赤色・灰黒色・褐色などの単色土器が知られている。文様は極めて多彩で、太陽を示すもの、四分割された幾何学文、山羊・馬・有翼馬・戦士などが描かれ彩文土器が聖器であったことを想像させる。
また建築材として用いられた煉瓦も、焼かれたものとなり、陶工が、完全に専門的職人として存在していたことが推測される。(Ghirshman.R.『I-ran』)

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