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鶴田 純久の章 お話

大名物。漢作肩衝茶入。
口造りの捻り返しは両削ぎで刃先鋭く、甑下が張り、その周囲に不規則に黒筋が二本廻り、一本は浮筋であります。
肩際は少し面取り、胴が張り、沈筋一線が茶入半分を廻ります。
総体に薄紫地に黒飴釉が掛かり、中に少し茶味を帯び、釉溜まりに青瑠璃色の景色があります。
置形の一なだれは、肩下双方から起こって胴紐下で一筋に合わし盆付際に至って止まります。
釉溜まりは厚く青瑠璃釉が特に麗しく現れています。
相好円満で品位が高く、地色は紫に茶味を帯び、その色が冴え冴えとしているので黒飴釉の景色が分明に現れ、黄釉および青瑠璃釉ともに光沢が麗しく、全部無疵で十分大名物の品位を具えた茶入であります。
もと朝倉九郎左衛門所持、のち宮王大夫に伝わり初めて宮王肩衝の名が出ました。
1583年(天正一一)宮内卿法印から豊臣秀吉に献じ、1615年(元和元)大阪落城の際徳川家康がこれを得て、井伊掃部頭直孝に授けて当時の戦功に報いました。
以来井伊家の家宝であります。
この茶入の外箱は大きい樺の柱をくりぬいたもので、高さ27cm余、縦30cm余、横約30cm、地震盗難火災除けのためにこのように重く強く大きな箱をつくったとのこと。
(『東山御物内別帳』『玩貨名物記』『古名物記』『万宝全書』『寛政重修諸家譜』『大正名器鑑』)

みやおうかたつき 宮王肩衝

漢作唐物肩衝茶入。
大名物。
『古名物記』によれば、前宮王大夫が所持したことが記されていて、銘の出所がわかりますが、その人物については明らかでありません。
『津田宗及茶湯日記』には天正五年、宮法(宮内卿法印)の茶会でこの茶入が用いられていることが記録されていますが、宮王大夫については記されていません。
その後、茶入は天正十一年、宮内卿法印から秀吉に献納、元和元年、大阪落城とともに家康の所蔵するところとなりました。
家康はこれを当時軍功のあった井伊掃部頭直孝に与えましたので、以後代々同家の家宝として伝えられました。
その後、火災をこうむり仕覆・箱などの付属物を失いましたが、幸い本体は無事に残り、現在同家設立の井伊美術館に所蔵されています。
姿は口造りが堂々として、口広く、捻り返しが強いです。
肩はほどよく衝き、胴も自然のふくらみをみせて、総体におだやかな造形を呈しています。
釉景は全体に茶紫地に黒飴釉がかかり、置形は双方から流れ下がった黒釉が胴紐下で一本にまとまり、盆付際に至って止まっていて、置形をなしています。
裾は浅く土見で、底は板起しで周縁が少しもち上がっています。
『古名物記』のほか『東山御物内別帳』『玩貨名物記』『古今名物類聚』『万宝全書』など諸名物記に記載されています。
【付属物】関東大震災のため付属品の大半は失われ、現在横差込蓋の箱に納められています。
【伝来】朝倉九郎左衛門―宮王大夫 宮内卿法印 豊臣秀吉 徳川家康 井伊掃部頭直孝―井伊家
【寸法】 高さ:98 胴径:7.0
【所蔵】井伊美術館

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