東陽徳輝 書翰 とうようてひ しょかん

東陽徳輝 書翰
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鶴田 純久の章 お話

元代に臨済大慧派の法系に出、現存の『勅修百丈清規』を纂修したことで名高い東陽徳輝が、その法兄の笑隠大訴(全悟禅師)に呈した書翰。
渦繋ぎ文様の縁があり、水仙の描かれた蠟箋の上に、鄭重な文言を謹厳な楷書体でしたためたこの書翰は、静嘉堂に伝わる墨蹟とともに東陽の墨蹟を代表するものである。
内容は洞山に籍を置く蘭秀谷という僧の紹介状。
東陽徳輝は大慧派の晦機元熙の法嗣で、この書翰のあて名人の笑隠大訴および石室祖瑛と同門である。
東陽は甲刹の一つである百丈山大智寿聖禅寺の住持在任中の元統三年(1335)、順宗帝の勅命を受けて禅林清規の纂修統一のことにあたり、これを成就した。
これが『勅修百丈清規』である。
のちに十刹第二の道場山護聖万寿禅寺にも住したが、その没年などは不明。
わが国の中巌円月はその法嗣である。
笑隠大訴は南昌の人で、晦機の法を嗣ぎ、元の文宗帝の尊信を受け、天暦二年(1329)文宗が金陵の離宮を大龍翔集慶禅寺とするや迎えられてその開山第一世となり、広智全悟大禅師の号を賜わり、また東陽の纂修した『勅修百丈清規』校閲の任にあたっ大慧派は士大夫階層と関係が深く、形式のやかましい四六駢儷体の法語の作成に腐心していたが、笑隠はまたこれを得意とし、彼の『蒲室集』は後世その模範とされ、わが国五山文学にも大きな影響を与えた。
至正四年(1344) 61歳で示寂。
【伝来】江戸冬木家松平不昧
【寸法】本紙縦30.9 横61.7
【所蔵】五島美術館

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