楽家六代。
京都油小路の大和屋嘉兵衛の二男で、柴家に大り宗大の養子となりました。
初名惣吉、のちに吉左衛門。
1728年(享保二二)に剃髪して左大と号しました。
千宗左から左の一字をもらったのであるといいます。
その赤釉は柿渋で、光沢の美しいのを特色とし、黒は宗入に倣っています。
長次郎・ノンコウ・光悦などを盛んに器用に模しました。
左大釉の呼び名がある赤地の上に白の水釉のどろりと掛かったものは、光悦写しの時にできた一大収穫でありました。
千家如心斎に深く信任されてしばしば共に紀伊国(和歌山県)へ下りました。晩年の作に如心斎銘黒赤二百の名碗があります。1739年(元文四)9月25日没、五十五歳。
(『楽焼』『楽陶工伝』)