高さ:9.4cm
口径:12.0~12.9cm
高台外径:5.7cm
同高さ:0.6cm
「加賀光悦」の銘は、特につけちれたものではなく、加賀にあった光悦茶碗ということから、いつしか加賀光悦と呼ばれるようになり、のちに銘となったものと推測されます。
光悦の赤楽茶碗としては、異色ある作ゆきの茶碗で、ことに他の乙御前・雪峰・障子・十王などが、すべて赤土を用いた赤楽茶碗ですのに、これは白土を用いていること、赤楽はほとんど親しみ深い、まるみの強い姿ですが、加賀は男性的な切り立ち形の茶碗になっています。
輪形の高台は、いたって平凡ですが、稜の立った腰から上、胴の作ゆきは、縦箆目を多くみせています。口作りも、かなり力のこもっだもので、面取りや高低の変化に富んでいます。しかし見込み底部の作りは、光悦特有の平底状です。
釉は、白土の上に黄土を塗り、その上から透明性の釉をかけたものであるため、赤みの発色は、乙御前や雪峰のように、紫みをおびたものではなく、むしろ黄みをおびて、明るい色調です。口辺の一部と、裾から腰化かけての一部に、白く霞のような変化があり、高台内に飴色がかった飛び釉が現われています。
光悦茶碗としでは、不二山に次いで、景色の豊かな茶碗といえましょう。
内箱の蓋裏に「赤茶碗 加賀光悦 於加州仙叟所持 宗乾(花押) 仙斎伝来ス」とあり、これによると、仙叟宗室が加賀前田藩の茶堂のおりに、所持していたと伝えていますが、光悦と親交のあった宗旦の子、仙叟の所持は十分に考えられます。書き付けの筆者宗乾は、今日庵の第七世竺叟のことで、享保十八年に二十五歳で没していますから、この箱書きは、江戸の豪商冬木喜平治の所持となってからのことと推測されます。
外箱の「光悦作かゝ 茶碗」の筆者は、いわずと知れた松平不昧公である。上伝来は仙叟ののち、京都銀座の年寄中村内蔵助に伝わり、正徳四年、内蔵助が聞所を仰せつけられて、所持の道具類売り立ての際、同人所持の名器の多くが江戸の冬木、すなわち上田喜平治の有となりましたが、この茶碗もその節に、冬木家に移ったものです。さらに寛政のころ、江戸の道具商伏見屋と本惣が取り次ぎ、雪舟の三幅対や、信楽三夕水指とともに、七百両(『大崎様御道具代御手控』では六百両)で松平不昧公の蔵となったものです。
不昧公は、これを『雲州名物記』中の中興名物之部にいれ、公所持の光悦茶碗の中では第一のものでした。したがって、茶会にもしばしば用いていますが、文化十一年十二月十六日には、三井八郎右衛門らを招いて、
一 掛物 利休文 なかめこし
一 茶入 盛阿弥尻膨
一 茶碗 加賀光悦
などの道具組みで夜会を催しています。
(林屋晴三)
赤茶碗 銘加賀光悦
重要文化財
高さ10.1cm 口径11.6~12.6cm 高台径5.9cm
萬野美術館
内箱蓋裏に「赤茶碗 加賀光悦 於加州仙叟所持 宗乾(花押)仙々斎伝来ス」と今日庵第七世竺叟が書き付け、外箱はのちの所持者松平不昧が「光悦作 かゝ 茶境」と記した優雅な箱です。内箱にあるように、仙叟が加賀で所持していたので俗に「加賀光悦」と呼ばれたのであり、特に銘として名付けられたものではありません。光悦と親交のあった宗旦の子仙叟は前田家の茶堂となり、加賀で歿していますので、かつて宗旦が光悦から贈られて愛蔵していたものかもしれません。仙叟以後の伝来は不詳ですが、元禄頃には銀座の年寄中村内蔵助が所持、正徳四年に内蔵助が閥所になった際、同人所持の道具の多くが江戸の豪商冬木家すなわち上田喜平次に移り、この茶碗もその一つでした。さらに寛政の頃に冬木家から移って、松平不昧の蔵となりました。
光悦の赤茶碗としては異色の作例です。他の赤茶碗はほとんど赤土ですのに、これは白土を用いていること、また赤茶碗にはまるみの強い作行きのものが多いですのに、これは強調した切立形に作っています。腰にくっきりと稜をつけ、胴にはあたかも鼓胴のようなふくらみをもたせ、二方を平らにした口縁には高低の変化があり、ロから胴にかけて適当に間をとりつつ内外に縦の箆目をつけているのも他にはない作行きで、光悦のなかでもとりわけ作為の多い茶碗の一つです。しかし円形の高台は意外に素直で、畳付は幅広く平らに、高台内もあっさりと削り込まれています。見込は例によって茶溜りはなく、緩やかにまるみをつけた平らな作行きです。
白土の上に黄土を刷毛で塗り、その上に透明の釉をかけているため、赤みの発色は「乙御前」や「毘沙門堂」とは異なり、明るい色調に焼き上がっています。口辺の一部と胴裾に刷毛の跡を見せた白い景色があるのも、この茶碗の見所の一つであり、また高台内に濃い緑色の火変りが生じています。
加賀光悦 かがこうえつ
名物。
楽焼茶碗、赤、光悦作。
名称の由来には古来数説があって、『名物目利聞書』には「加賀光悦加州金沢にて見ると見えたり」とあります。
『和漢名器博覧』『工芸志料』には加賀国(石川県)の土でつくった光悦作の茶碗と解説していますが、『本朝陶器孜証』は「加賀にて焼きたるにはあらず加賀にある故左唱へ候との事」といい、『茶器名物図彙』には「加賀光悦鷹峰焼なり、加賀大納言様被付しと云」と記しています。
『大正名器鑑』は「大樋窯以前加賀に茶碗を焼くべき窯の存せしや否や甚だ疑しく恐らく後者の説くところ正しかるべし」といいます。
口造りは箆で面取りしたところと、平たくまたは丸くしたところとがあって変化があります。
口縁の下には青い飛釉が一点あり、また裾廻りに白釉雲のように浮かんでいるところがあります。
内部は全体の諸釉の中に黒色のむらむらがIて所あります。
光悦茶碗中最も景色に富んでいるものとされています。
千仙叟所持であったが京都の中村蔵之釉に伝わり、1714年(正徳四)冬木喜平次の所有となり、寛政(1789-1801)の頃松平不昧の蔵となりました。
(『大正名器鑑』)