高さ10.1cm 口径9.9cm 高台径4.8cm
内箱蓋表の「光悦筒 茶碗」の金粉字形の筆者は三谷宗鎮、外箱蓋裏には藪内輝翁が「粉文字 宗鎮筆 追銘弁財天 ヤフ輝翁(花押)」としたためている。三谷宗鎮は京都の出で伊藤東涯の弟子であり、芸州浅野家に需者として二百石で仕えた人物。輝翁は藪内家の十一世にあたる。さらに添状によると、この茶碗はかつて京都の豪商で数奇者であった後藤三右衛門宗伴が所持していたもので、同じく数奇者として知られた瀬尾宗朴が懇望したところ、三谷宗鎮が仲立ちして金二十枚で譲られたものであったらしい。因みに宗伴・宗朴・宗鎮の三者はいずれも覚々斎原叟の門人として知友の間柄であった。なお添状に記された干支から推定して、この茶碗の譲渡しが行なわれたのは享保十一年の午歳であったようである。
この茶碗が筆者の管見のうちに入ったのは近年のことで、いわば永く世に知られていなかったものである。しかしやや小振りの筒茶碗ではあるが、光悦茶碗のなかにあってもっとも優れた作といっても過言ではないように思われる。
赤土を用いた筒茶碗で、ほぽ平らな口縁は「不二山」と似た作行きで厚く薄く削られ、筒形の胴は直線的に立ち上がり、胴の上部の一方に横箆目をつけ、胴裾から腰にかけて僅かにすぼまっている。
この茶碗の最大の見所は高台から高台脇にかけての削り跡で、力感を込めつつ変化を求めた作者の気合いがひしひしと感じられ、それは「不二山」ともっとも近い作行きである。
内外全体にかかった柚は一部白濁色をおび、よく溶けたところは透明度がつよく、その土や釉が「毘沙門堂」や「雪峯」「乙御前」などと同質のものであったことは明らかである。口部から底部にかけて二、三条縦に窯疵が生じている。