所蔵:徳川美術館
高さ:8.6~9.5cm
口径:9.7~10.0cm
高台外径:5.5cm
同高さ:0.9cm
織部には青織部・鳴海織部・赤織部・黒織部・織部黒・絵織部・鼠織部・伊賀織部・唐津織部などの区別がありますが、この筒茶碗のように黒釉を塗り、白く残したところに鉄絵紋様のあるものを黒織部と呼んでいます。そして全面に黒釉のかかったものは、織部黒と呼んでしる、「冬枯」という銘はいつ、だれがつけたものかつまびらかでありませんが、斬新警抜な織部の作風を代表する名作で、いかにも織部らしい感じのする織部です。桃山という生き生きとした時代が生んだ、傑作といえましょう。
素地はざんぐりとした灰白色の土で、内面と外側胴半分に漆黒の釉薬が、残りの半分と底には白濁の釉薬がかかり、外側は黒釉のかかったところを掻き落として大柄な木の葉とも、蕾ともわからない抽象的な紋様を刻し、その上に白釉を塗ってあります。胴半分白濁分釉薬を塗った部分は、釉下にこれも何の画かわけのわからない、抽象的な鉄絵紋があります。
形は胴に太い指筋のある筒形の深い茶碗で、縁はど太く、箆目がいくつかあり、大きくうねつて高くなったところが、織部らしい変化を与えています。
胴上下と、縦に一本太い刻線があり、高台は分厚いですが、つくりは素直です。高台裏にも白濁の粉薬を塗り畳つきだけは露胎です。
焼成は還元ぎみで、焼き上がると窯から引ぎ出したらしく、鉄の長い鋏でつまみ出しなあとが、図版でも左上の縁のところに見えます。
底にQという字の印が押してありますが、これは窯印ではなく、これをつくった茶人のサインと解すべきものでしょう。その理由は同じQという印を押した茶碗が、大萱の牟田洞からも、大平からを、久尻の隠居山の表窯からも出土しており、この茶碗をつくった人がそこここの窯を訪れて、つくったものと思われます。
天正・文禄ごろ瀬戸・美濃へ行って、茶器をつくった茶人として知られているのは、新兵衛・光存・正意・宗伯・茂右衛門などですが、Qは光存の印と伝えられています。この伝承がどれだけ信頼できるのか、深くは調べたことがありませんが、美濃地方には、Qは光存の印だという言い伝えがあります。
内箱は桐、了々斎の書き付けで「ヲリヘ筒茶碗 冬枯卜云(花押)」とあり、名古屋岡谷家の織部として有名でしたが、その先の伝来はつまびらかでありません。
(小山冨士夫)
黒織部 茶碗 銘 冬枯 003
Black Oribe tea bowl. known as ‘Fuyu-gare’
高さ9.5cm 口径10.5cm 高台径5.3cm
徳川美術館
数ある黒織部茶碗のなかでも、他に類を見ないおもしろさによって出色のものと声価の高い茶碗であります。 まるい筒茶碗で、 厚手のロ部には箆目をつけ、腰に太く轆轤目をめぐらしています。 高台は不整円形に素直に削り出され、 畳付はやや広い。 内部と外側三分の二に漆黒に溶けた釉がかかり、 白抜きにした部分には鉄絵具で抽象的な文様を描き、上から長石質の白釉をかけています。 黒釉の部分にも大柄な木葉のような文様を線彫りにして白釉を塗り、さらに底にも白釉をかけていますが、 高台畳付にはざんぐりとした灰白色の土が見えています。
高台内に「2」のような印が押してありますが、これは窯印なのか、あるいは注文主の手印かは、判然としません。 しかし古来、この印は光存といいます人物の印といいます言い伝えがあります。 同じ印を押した茶碗の陶片が大萱の牟田洞、 大平、 久尻の隠居山表窯などから出土していますことから、小山冨士夫氏はこの茶碗を作った人物がそこここを訪れて作ったものと推測しています。 しかし、 同じ意味でこれを注文者の印と解することもできる。
桐内箱の蓋裏に了々斎が 「ヲリへ筒茶碗 冬枯ト云」と書き付けており、かつて名古屋の岡谷家の蔵でありましましたが、 徳川美術館に寄贈されたものであります。
冬枯 ふゆがれ
黒織部茶碗。黒織部茶碗のふつうの形はこれより浅い沓形で、このように深いものは稀です。立ち上がった胴部にうねるような口辺部、腰にも箆目を付けた手強い造形をもちます。全体の約三分の二に黒釉をかけ、その一部を掻き落として木の葉のような文様を付け、白く抜けた部分にも鉄絵で閣達な文様を描いています。この現代のアブストラクトにも通ずる抽象文様は織部陶だけにみられる特徴的なもので、器形にしっくりとはまって見事な工芸美です。高台は不整円形に削り出され、高台内にQ字形の印がみられます。深々とした器形の季節感からか「冬枯」の銘が付けられています。《寸法》高さ9.5 口径10.5 高台径5.3《所蔵》徳川黎明会