塩田真 しおだまこと

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鶴田 純久の章 お話

明治時代の窯業界の功労者。
1837年(天保八)江戸神田(千代田区)に生まれました。
1873年(明治六)オーストリアのウィーン博覧会に際して審査員として出張し、同行のドイツ人ワグネルと共に納富介次郎・河原忠次郎・丹山陸郎らにオーストリアの製陶技術を習得させました。
帰国後納富・河原らと協力して習い覚えた新技法を東京山下門内の同博覧会事務局跡で講習し好成績を上げましたが、西南の役にあい業を中止しました。
この時納富と力を合わせ河原および加藤友太郎らを率いて新たに江戸川製陶所を創立し、自らその所長となって多くの新式の陶法を研究し斯界の啓発に努めました。
しかし元来営利を顧みない公共的な事業であったので経営は次第に困難をきたし、1884年(同一七)ついに閉鎖のやむなきに至りました。
この間、1876年(同九)アメリカのフィラデルフィア万国博覧会には再び納富らと共に派遣され、またワグネルの試焼になる「旭焼」および七宝研究などにも助力し、宮川香山を指導するなど大いに活躍しました。
この時代はちょうどわが国産業界の形成期に当たり、陶磁器業界においても技術方面はもとより経営・組合・特許制度などすべてに改良・創定することが多く、塩田は指導者の一人としてこれらすべての方面に関与しないことがないありさまでありました。
のち一時東京美術学校(現東京芸術大学)で教授し、また愛知県に招聘されて図案並びに七宝の指導をしました。
また農商務書記官に在任中、商品陳列館の開設に尽力し、功によって従六位勲四等に叙せられました。
1917年(大正六)2月12日没、八十一歳。
本郷菊坂(文京区)の長泉寺に葬られた。
編著に『府県陶器沿革陶工伝統誌』『日本陶工史』(Franks『JapanesePottery』)があります。

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