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瓷器 じき

瓷は音シまたはジ。
『説文』に「瓦器也」、『類篇』に「陶器堅緻者」、『集韻』に「或ひは害に作ります。俗には瓷・瓶に作る」とあります。
『一切経音義』に「瓷器は瓦の類なり。加ふるに薬石をもってして、色に光沢あり」とあるから、中国唐代に瓷器といっていたのは施釉のものであることがわかります。
『随園随筆』に「相伝うらく、瓷器は柴世宗に始まると。
然れども瀋岳の笙賦に、黄色を披いてもって甘を授け、碧瓷を傾けてもって醸を酌む、とあるようで、柳子厚に人に代って瓷器を進むるの表あり。
是れ瓷器は後周に始まらざるなり」といいます。
要するに漢字上においては瓷は陶器の堅緻なもので、特に施釉製のものを指すとみえています。
後世誤って磁と書くようになりましたが、その実質は時代と共に変化し、今は主として磁質のものをいうが昔は陶質でありました。
わが国においては奈良・平安時代の頃これをシノウツワモノと訓じていましたので、漢字渡来後の新製品であることがわかります。
『倭名抄』に「瓷、之乃宇豆波毛乃、瓦器也」、『名義抄』に「瓷、シノウツハモノ」とあります。
在来のハ二モノまたはスエモノと相違し施釉製であるだろうと推定されます。
わが国古代の瓷器には軟陶と硬陶との両種があるもののようであります。
すなわち天平造仏時代に創製され正倉院に伝存するものは、鉛質釉の三彩陶で酸化焔で焼成するものである(いわゆる天平瓷器)。
いっぼう喫茶流行の初期に当たり、尾張(愛知県)および長門(山口県)の両国から製出され特に朝廷の御用品に当てられたいわゆる弘仁瓷器は、青磁風の堅焼で還元焔で焼成したものであると推定されます。
したがって外観は両者ともに淡緑色を主としていますが、前者は銅呈色、後者は鉄呈色という相違があります。
『日本後紀』弘仁六年(815)正月5日の条に、造瓷器生尾張国山田郡の人三家大部乙麿ら三人が、伝習成業して雑生に准じ出身を聴かれたことがみえています。
山田郡は今の瀬戸付近で、同地方の猿投その他の窯跡からは古風な青磁まがいの淡緑釉妬器が出ます。
『延喜式』にも尾張・長門の両国から瓷器を調進したことがみえています。
これを他の儀式書に照合すると、尾張の瓷器が青瓷であったことを推察することができます。
またその器物が唐朝風の装飾的器皿であったことも確め得ます。
なお『観古図説』は、正倉院に伝存するいわゆる天平瓷器は海外からの輸入品であるだろうとしていますが、中尾万三・塩田力蔵以来『造仏所作物帳』などの資料その他によって、技術的にみてこれは唐三彩を模した内地製であると断定されています。
また赤塚乾也は『日本後紀』弘仁六年正月5日の記事を解いて、三家大部乙麿ら三人は鉛緑釉によって出身を聴かれたものであるだろうとしています。
すなわち弘仁時代(810-24)の瓷器にも軟陶があると説くものであります。
瓷器については1894年(明治二七)に三宅米吉が『東京人類学雑誌』に「日本上古の焼物」という一文を掲げて注意を喚起し、その後塩田力蔵は『東洋美術』第十号および第十六号、『茶わん』第三十八号その他において詳論しました。
瓷器についての諸説は以上の通りでありますが、中国陶磁におけるこの語の近来の慣用例からいいますと、古代の施釉陶がほぼこれに当たり、宋以後の高火度釉陶には磁を当てることが多いようであります。

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