彩文土器 さいもんどき

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鶴田 純久の章 お話

彩色によって装飾的要素を施した土器。
彩色土器ともいいます。
土器の装飾法の一つである刻線文を施し、焼き上げてのちに刻線に白粘土などを詰めて飾った土器もあります。
器面全体を単一の色で塗りつぶした土器を彩色土器、文様のある土器を彩文土器と区別して呼ぶ方が紛らわしくないとの意見もありますが、この種の土器の研究史からいえば同じ土器が彩色土器とも彩文土器とも呼ばれてきた。
現在では彩文土器の名称が多く使われています。
中国の場合は彩陶ともいいます。
典型的な彩陶や多くの彩文土器は、土器の成形段階の仕上げが終わり乾燥させてのちに色付けして焼いたものでありますが、弥生式土器にもある赤色彩文の土器のように焼成ののちに彩る方法も用いられました。
焼成後に色付けしたものは高温によって着色材が固着されていないために色が落ちやすく、また変色していることも多いようです。
彩文に使う色は一色だけの場合と二色以上の場合とあるようで、色の選択そのものも文様と同じように各文化の特色の一つと認められます。
彩文は一般に幾何学文が多く用いられましたが、植物文・動物文・大像、狩猟や航行などの大間の諸活動の場面、および以上の図文のうち何種類かを組み合わせたものなどかおり、種類は実に豊富であります。
そればかりではなく、幾何学文の組み合わせによって成立していると単純に考えられがちな図文の中に、考古学の研究法の基礎である型式学的研究によって詳細に文様の起原を追跡していくと、具象的な文様にたどり着くことがしばしばあるようで、文様の分類もそれほど簡単ではないようです。
例えばメソポタミアのサマッラ式土器では、ダンスをする女性の列がくらげを連ねたような図文に、あるいは四方に配置した四頭の山羊が麦の穂先のような形に、牛頭の連続文が鎖のような図文にと変化しています。
また彩陶でも魚の図文から連続三角文に変わっていく過程がたどられています。
個々の文様の起原が判明したとしても、なぜそのような文様で土器を飾ったかという疑問は解決されないようです。
これまでに提出された諸説のうち最も単純なのは、土器そのものの製作を編物の篭・木製容器・石製容器の模作に求める模倣説であります。
編物の篭に似せて土器をつくると幾何学文が生じ、クレタ島出土の高杯は木製の高杯をまねたもので木目を彩色で表わしており、エジプトやクレタの石製容器の縞が土器でも忠実に表現されている事実などが著名な実例として挙げられます。
しかしこの模倣説では植物文や動物文の写実的な表現が説明できないようです。
そこでこれらの諸表現に呪術的な意味を認めようという考え方が出てきます。
右に挙げた文様について、土器づくりは編目・木目・石の縞を表わすことによって土器を割れなくする効果があるものと考えていたと解釈されます。
まったく別の解釈として、幾何学文につきウィルヘルム一ヴォ一リンガ一は「生命によって惑乱され不安化されている原始大は、無生物を求める。
なぜならば生成(Werden)の不安がそれから消し去られ、持続的な固定性が創り出されるからである」と考え、それが「平面幾何学的あるいは立体幾何学的な形像」だという(中野勇訳『ゴシック美術形式論』) 。
またアロイス一リ一グルは次のように主張しています。
「一たび植物的文様が装飾形として採用せられるや、これを(たとえばロ一タスを)幾何学文様化しようといそぐ。
技術的加工による幾何学的構成と芸術的利用の両者をもたらすのに好都合だからであります。
なお植物的図象以前に動物(大像)図象が、しばしば幾何学的様式に移植されたにちがいないようです。
このような移植は、より良いものを創造する能力なき結果の産物でもなかりました。
それは、前述した洞窟大の作品-動物(大間)像を現実現象からとり出して、影絵によってできるだけ写実的にあらわそうとのあきらかな努力がみられたIが十分にしめしています。
だから大像や動物像の幾何学的形式化は、もともとこれら形像を線の図形に意識的に写したもので、あたかも幾何学的文様が左右相称およびリズム法則による線の意識的結合であるがごとくである」。
彩文土器における幾何学文の認識は、アレクサンデル一コンツエが古典時代ギリシアの土器を分析して、最古の段階に「幾何学様式」を設定した時に始まった(1870年)。
そしてハインリッヒ一シュリ一マンのトロヤの発掘において、IfJヶIネ時代の彩文土器が、またその下層から刻線文であるけれども幾何学文をもつ土器が発見され、幾何学文の起原が一層古い時代にさかのぼることが確認されました。
十九世紀末から二十世紀初めにかけてエジプトのディオスポリス一パルヴアやイランのスサ、西トルキ’スタンのアナウなどで彩文土器が発見されて、先史時代における土器製作技術の発達が驚異の目でみられるようになりました。
1920年前後にシュメ一ル文明の中心地であるエリドゥやウルで彩文土器が発見されると、これらの彩文土器の系統がシュメ一ル大の起原論と関連して問題になり、多くの研究者がこの議論に参加しました。
その中でステファン一ラングドンの仮説が優勢でありました。
彩文土器の製作者たちは、中央アジアのアナウからイラン高原を越え、一派はシリアから紀元前四千年以前にエジプトに到達し、遅れて出発した一派はイラン高原を越えて紀元前五千年以前にメソポタミアヘ達しました。
この一派がシュメ一ル大であるというのでありました。
このことが彩文土器の存在を歴史の中にますます重く位置付ける結果となったが、1920年代にヘンリ一・フランクフォ一トは土器の総合的な研究を行なって、彩文土器が存在するという事実だけで各地の文化と大間の移動を関連付けていた系統観を批判し、彩文土器に認められる各地域間の類似性と独自性とを明確に区別し、彩文土器をもって特定の大種の所産とみなす偏見から彩文土器を解放しました。
彩文土器の使用者たちは、土器として彩文土器だけを使っていたのではなく、むしろ日常使われていた土器の中で占める彩文土器の比率は低い。
坪井清足によりますと、中国山西省西陰村遺跡の竪穴出土の土器の比率は、彩陶16.3パ一セントに対して、黒陶(黒色ないし灰色のもので、いわゆる黒陶とは別物)11.6パ一セント、尖底壷5.6パ一セント、粗陶31.3パ一セントであって、彩陶の器形は各種の鉢・壷・高杯などの物を盛ったり大れておいたりする容器であるようで、しかもこの種の器形には紅陶もあるから、彩陶は特殊な容器として存在したものであることが指摘されている(『世界陶磁全集』八)。
どの遺跡から発見される彩文土器も出土した全土器に対する割合は多くないようです。
この事実を確認しておくならば、彩文土器から先史時代や古代の大々についての重要な情報を得ることができます。
彩文土器は当時における土器製作技術の水準を示すものであるようで、またそれを産み出した集団の美意識をも知ることができ、さらに各地域の彩文土器の文様を比較することによって、文化の影響関係や時には特定の集団の移動について検討しうるデ一タを、他の粗製土器よりも多く持っているからであります。
最古の時期の彩文土器は、現在のところイラン西部からイラク北東部にまたがる地域で発見されています。
新石器時代の層で、土器の出現をやや遅れる紀元前七千年紀末から六千年紀初めにかけての時代と考えられ、鉢形土器にベンガラで横位置のジグザグ文や格子文を施してあります。
ほぼ同時期のジャルモ遺跡出土品から、ハッス一ナ式・サマッラ式の彩文土器を経て、西アジアでは最も発達した美しいハラフ式土器が生まれた。
南メソポタミアではウルク期に赤色または灰黒色の土器が流行して彩文土器はいったん衰退するが、ジェムデット一ナスル期には復活し、約千年続いておよそ紀元前二千年頃を境としてほとんどつくられなくなりました。
スサ第一様式・第二様式の名称で著名になったスサ出土の彩文土器は、その後の研究で第一様式は四期に細分され、また最近ではスサ第一様式に先行する彩文土器が確認されて、メソポタミアにおける彩文土器の変化とほぼ対応することがわかってきた。
またメソポタミアの彩文土器の技術はシリア、パレスチナ、キプロス、アナトリア高原へも伝えられ、これらの地域ではかなりのちの時代までつくられた。
エジプト最古の彩文土器は、タサ出土の刻線文に白粘土を詰めた編物篭に起原をもつ形のものであります。
紀元前五千年紀と推定されるが、メソポタミア起原の彩文土器とは関係なく独自に発生したものであるでしょう。
エジプトでは白粘土で幾何学文を表わした黒い土器がアムラ一期に流行し、次のゲルゼ一期には幾何学文で飾った土器のほかに、特色のあるものとして舟の絵を赤紫で描いた土器が行なわれた。
エジプトの彩文土器は第一・第二王朝期にはごく簡単な幾何学文となっていったが、クレタ島やシリア、パレスチナ製の彩文土器がかなり運び込まれています。
ギリシアでは新石器時代のセスクロ文化の時代から、菱形・三角形・ジグザグなどの幾何学文を描いた彩文土器がありました。
紀元前三千年紀後半のディミ二文化の土器は曲線文、ことに渦文が多く用いられています。
この彩文土器の影響のもとに、新石器時代の東ヨ一ロッパ、イタリアなどの彩文土器が生まれた。
トリポリエの有名な彩文土器もこの系統に属します。
クレタ島では前二千年紀初めの第一宮殿時代にカマレス式土器が現われた。
それは黒地の全面に白・赤・黄色をもって花や植物を曲線文と共に描いた優雅な作品であります。
第二宮殿時代には、明るい地に暗色の単彩で植物や海生動物を写実的に描くことが流行しました。
クレタの彩文土器とギリシア本土の彩文土器とが混合してミュケナイ式土器が生まれた。
これは明るい地に黒色ないし褐色で、幾何学文と、まったく図案化した動物文や大像が描かれた。
これがギリシアの幾何学様式につながっていきます。
やがて東方化様式から彩文土器が異常に発達したものと考えられる黒絵式が生成し、赤絵式・白地式と変化します。
ギリシアの土器の全盛時代にアルプス以北のヨ一ロッパの中心部では、鉄器時代に属するハルシュタ。
卜文化が栄え、次いでラ一テ一ヌ文化が起こったが、この時代にも彩文土器がつくられています。
一方メソポタミアから東へ伝播した土器に彩文を施す技術は、イラン高原から周辺部へ広がりました。
北ではトゥルクメ二アのジョイトゥン文化からアナウ第三文化まで彩文土器が大いに流行しました。
アフガエスタンには彩文土器を出土する遺跡としてムンディガクがあるようで、イランから東南部へ伝播したものはバルチスタンの彩文土器となり、これを踏まえてインダス文明の特徴的な植物文や動物文の多い彩文土器が生まれ、中央インドへも波及して行りました。
おそらく中央アジアから中国へ伝播して行った彩文を施す技術は、黄河流域で彩陶となりさらに周辺部にも及んです。
台湾でも彩陶が発見されています。
系譜関係は明らかでないが、朝鮮半島の櫛目文土器にも刻線文帯の一部を刻線を大れないで残して赤く塗った土器があるようで、また丹塗磨研土器と呼ばれる土器も知られています。
わが国では縄文式土器の中に赤色で彩色をしたものがあるようで、弥生式土器では器面全体を赤色で被ったものと彩文を施したものとがあります。
南北両アメリカでも多くの彩文土器が知られていますが、おそらく旧大陸の彩文土器とはまったく別系統で独自に発達したものであるでしょう。

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